第13回研究会 社会学・口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開

第13回研究会 社会学・口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開

日時:2012年 4月14日(土)13:00~
場所:東京大学東洋文化研究所大会議室
表題:社会学・口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開 ―教育大系統の民俗学を相対化する
     〈(シリーズ)民俗学におけるオーラリティの位相(2)〉
登壇者:
 桜井厚(立教大学)「オーラリティの復権 ――『口述の生活史』前後」
 山田厳子(弘前大学)「世間話研究の射程 ―口承文芸研究から〈口承〉研究へ―」
コメンテーター:
 古家信平(筑波大学)
 山泰幸(関西学院大学)

■コーディネーター:岩本通弥(東京大学)、小熊誠(神奈川大学)、門田岳久(日本学術振興会)

趣旨

 現代民俗学会では第13回研究会、および2012年度年次大会(5月)において、民俗学の〈技法〉をめぐる議論を行う。とりわけ着目するのは民俗学におけるオーラリティの位相と、その学史的変遷である。

 いうまでもなく民俗学でオーラリティは一つのジャンルとして、また資料の形式として位置付けられてきた。しかし私たちは「聞き書き」という手法を用い、オーラリティやナラティヴに頼って調査・研究を進めてきたのにも拘らず、これに関する理論的な検討のみならず、なぜ語りを扱うのかという前提的な言及もほとんどなされてこなかった。むしろオーラリティやナラティヴを中心に構造化されてきた世界のFolklore Studiesと異なり、日本の民俗学では語りの資料は実証性に欠けるものとして徐々に軽視され、人々はなぜ語るのか/どのように語るのか/語りや対話がいかにして自己や社会関係の形成に関わるのかという、オーラリティを扱う上での問題意識が徹底されてこなかった。オーラリティやナラティヴに対する方法的な視角や関心の薄さは、1977年に結成された日本口承文芸学会が日本民俗学会と別立てになっている事実、あるいは民俗学を中心に組織された「人類文化研究のための非文字資料の体系化」(神奈川大学21世紀COEプログラム)においても口承文芸の専門家が一人も配置されなかったことに、如実に顕れている。
 民俗学において今オーラリティを議論することは、決して民俗学内の一つのサブカテゴリーとしてこの分野を再定位し、拡大させようということではない。むしろ、なぜオーラリティが軽視されていったのか経緯を検討し、民俗学の基本的な技法としてそれを位置付けることで、民俗学全体の学問認識を問おうという試みである。従ってそれは日本の民俗学の方法的特殊性を相対化する作業であり、国際化に不可欠な理論的深化にも繋がっていくだろう。
 第13回研究会では、年次大会のシンポジウム「民俗学的〈技法〉の構築を目指して―方法としてのナラティヴ」の前提として、社会学および口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開を概観するとともに、日本の民俗学がオーラリティやナラティヴを軽視していった学史的展開を、1958年からのアカデミズム化の流れの中で、相対化することを試みる。特に歴史学との関係性が深くなった東京教育大学の史学方法論教室が作り出した「民俗」学を改めて俎上に載せ、同教室における歴史学重視の学問展開と、社会学や文学との関係希薄化を問い直す。
 こうした経緯を学史の中から析出させるために、日本のライフ・ストーリー/ヒストリー研究を牽引してきた桜井厚氏に、社会学におけるオーラリティ研究の展開を通覧していただくとともに、有賀喜左衛門・中野卓氏の主導する教育大社会学教室という、史学方法論とは違う系譜の下でもう一つの「民俗学」=「生活」研究が立ち上がっていった経緯を語っていただく。一方、〈口承〉研究の立場からは、世間話研究を牽引されてきた山田厳子氏に、関敬吾系統の「民俗学」がどのようなオーラリティ研究を展開してきたのか、ジャンル論から飛翔しつつある、その動向を紹介いただき、両者の議論を交差させることで、日本の民俗学における特異な「方法」的問題の所在も明確化させる。

桜井厚(立教大学)
 オーラリティの復権――『口述の生活史』前後

【要旨】
 中野卓編著『口述の生活史』(1977)は、わが国における生活史(ライフヒストリー)研究、なかんずくオーラリティ/ナラティヴ研究の嚆矢となった。中野は師、有賀喜左衞門から「生活」把握の方法論や社会調査の精神を受け継ぎながら、本書によって機能主義的な方法論と距離をおいて、新たに「個人」の生活世界を探究することからわが国の歴史と文化への接近を構想した。報告では、柳田民俗学から出発した有賀から中野が何を継承し、さらに今日のライフストーリー/オーラルヒストリー研究へとつながっているのかを考えたい。

山田厳子(弘前大学)
 世間話研究の射程ー口承文芸研究から〈口承〉研究へー

【要旨】
 柳田の提唱した世間話の研究はいくつかの補助線をひきながら読み解くべき問題であるが、第一には柳田の国語論の中で位置づけられるべきものである。そこでは、話そのものを資料として活用するというよりは、話が認識を再生産するしくみであることに目を向けていると思われる。そこで、形式/語彙/話法(技法)といった問題群と、知識/経験といった問題群が、柳田とその後の研究の中でどのような形で具体的に展開してきたのかについて、述べてみたい。