第16回研究会 private sector/public sector民俗学の経験との対話

第16回研究会 private sector/public sector民俗学の経験との対話

日時:2012年12月1日(土)13:00~18:00
場所:京都リサーチパーク (京都市下京区中堂寺南町134番地)4号館ルーム2
表題:private sector/public sector民俗学の経験との対話-これからの「公共民俗学」のために―
発表者:
 山路興造(元京都市歴史資料館長)「私と私的民俗学」
 植木行宣(元京都府教育委員会文化財保護課)「民俗文化財の研究と保護をめぐって」
 蘇理剛志(和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課)
        「民俗学知の活用と民俗芸能―紀州東照宮祭礼・和歌祭の御船歌を事例に―」

■コーディネーター:俵木悟(成城大学文芸学部准教授)・菅豊 (東京大学東洋文化研究所教授)
■主催/共催:公共民俗学研究会/現代民俗学会/京都民俗学会/科研基盤研究(B)「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」

趣旨

 およそこの50年間、民俗学が大勢において大学の学問になってきたなかで、芸能・祭礼研究は、大学に属さない多くの民間の研究者、あるいは公共部門の研究者が主導的な役割を果たしてきた領域である。その背景には、比較的早くに芸能や祭礼が「文化財」として行政に組み込まれ、また同時に観光、地域振興、教育などの資源として社会的な意義を見いだされてきたことがあると考えられる。いわば社会的な需要の多い研究領域であり、それに応じて研究者としての多様な関わり方があり、かつその多様な関わり方が、行政機関や公益財団の職員、博物館・資料館の学芸員、各種の研究機関の研究員、さらには調査や記録作成事業に携わる監修者や調査員などといったかたちで制度化され、保証されてきた。このように組織化された体制によって、全国的に個別事例の報告が蓄積され、それを資料とする実証的な研究がなされてきたことは、芸能・祭礼の民俗学的研究の特徴であり、ひとつの達成である。
 しかし一方で、芸能・祭礼研究と社会との接点は文化財という制度のみであるかのような風潮も生じ、生活実践から遊離して「文化財学」化したという批判を受けるのも、故無しとはしない。関わり方は多様でありながら、その多くが文化財を中心とする国家の施策のもとに編成されてきた、あるいはそれこそが研究者に求められる役割であると考えられてきたとも言えるであろう。
 これからの公共民俗学では、こうした「公」的なあり方をふまえつつ、すべての人に開かれ、誰もがそれを利用し、実践し、批判することができる「共」的な学問のあり方と接合していくことが求められている。その実現を目指して今回のワークショップでは、民間の研究者として、また公共機関の研究者として豊富な経験と実績をもつ2名、そして今まさに制度と地域社会との接点で活動する1名に、それぞれの立場で行ってきた研究の意義や成果、そしてその限界について発表していただく。この経験を共有し、対話することを通して、これからの公共民俗学の可能性を考えてみたい。

山路興造(元京都市歴史資料館長)
「私と私的民俗学」

【要旨】
 私は民俗学の研究者ではないと思う。民俗芸能学会代表理事と芸能史研究会代表委員を、すでに15年近く勤めているので、民俗芸能と日本芸能史についてはそれなりの研究を積み重ねてきた思いはある。また東京教育大学の史学方法論の教室に潜り込んで、民俗学の研究方法を模索したし、私自身の調査フィールドを大切にし、石見在住の民俗研究者牛尾三千夫を師と仰いで、その方法論を体得もした。
 しかし、私の興味は、各時代の民衆が喜怒哀楽を託し、生活の糧とした「芸能」の歴史にあった。その意味では私の興味は歴史という縦軸にあり、現在という視点で広がりを考える横軸に対する興味は薄い。そのことに気がついた頃、京都の西田文化史学の存在を知り、民俗芸能研究の師であった本田安次の元を離れて京都に移住した。といっても、学問体系の一部に組み込まれた歴史学に潜り込んだわけではない。また芸能史といっても、私の興味は、現在に伝承された古典芸能ではなく、民衆が熱狂してやがて捨て去った芸能の姿を、歴史学・民俗学・絵画史・日本文学など、既成の学問体系に捉われることなく考えることであり、それ故に民間研究者として今日に至っている。

植木行宣(元京都府教育委員会文化財保護課)
「民俗文化財の研究と保護をめぐって」

【要旨】
 私は20年余にわたり京都府で無形と民俗文化財の保護行政にたずさわってきた。着任した1967年当時は、両部門ともにいまだほとんど認知されておらず、どこに何があるかといった基礎的データーさえ皆無の状態であった。当然ながら保護のためのマニュアルなどは存在せず、文化庁に問いをなげても実際的な指導助言は期待できなかった。
 担当者として呼ばれたのは、私が日本の芸能文化史を研究していたからである。つまりは即戦力と期待されたわけであり、まずは祭や民俗芸能についての基礎的調査をすすめつつ、民俗の保護はどうあるべきかを模索することになった。しかし、その教材である歴史や民俗研究から具体的に役立つ成果は得られなかった。天下の祇園祭についてさえ、山鉾についての具体的な歴史的研究はなく、民俗学研究は折口の依代説による意味論に終始しほとんど思考停止状態にあり、自ら臨床的研究を行なわねばならなかった。
 国の文化財保護施策は指定して保護をはかるのが基本である。しかし、民俗の評価は資料的価値が基本であり、資料としての絶対的価値は等価である。記録を作成してその保存をはかる措置は民俗の本質に基づくものであるが、保存の名に値する記録作成についての議論はいまもさして進んでおらず、映像による記録などは手探りの域をでない。
 文化財保護に関わる研究成果は行政の現場における臨床的研究に負うところが多大である。ところがそうした取り組みについては、民俗学研究者は概して冷淡でその成果も民俗学研究に反映されているとはいえない。
 地域社会にとって祭りや芸能はそれぞれにかけがえのない伝承である。それを資料的価値が低いからといって切り捨ててはならない。京都府が最期まで、国が提示したモデルによる条例を制定せず、「未指定文化財」保護への財政措置や指導助言を行ない、条例制定に当たっては現状から議論を積み上げ、ランキングではなく登録制度による面的保護を重視したのはその故である。
 今回は、そのあたりをふり返りつつ、いま民俗文化財が直面している諸問題について考えてみたい。

蘇理剛志(和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課)
「民俗学知の活用と民俗芸能―紀州東照宮祭礼・和歌祭の御船歌を事例に―」

【要旨】
 和歌山県には、民俗学を研究・専攻できる大学や研究機関がなく、そのため県下の民俗学研究は、長年にわたり外部の研究者や郷土史家らの個別研究によって進められてきた。柳田的にいえば、和歌山県下の民俗研究は「旅人の学」と「同郷人の学」による成果といえる。
 パブリック・セクターの民俗学研究者は、いわば「寄留者の学」といわれる立場の一つの存在形態に位置づけられる。しかし、そこで従事する仕事は多岐にわたり、文化財保護行政や博物館業務で自らに課された本来業務としての学問的な専門性以外に、それとはまた別の次元において自らがもつ「民俗学知」というべき経験や知識が求められたり、それを活かす機会を与えられたりすることが多い。
 兵庫県神戸市生まれの私は、縁あって和歌山県で文化財保護行政の担当者として奉職したが、2010年には、紀州東照宮の祭礼である和歌祭で歌われた「御船歌」を30年ぶりに復活させ、民俗芸能の実演者として祭りに参画することになった。
 御船歌復活の企ての過程では、こうした自らの仕事と研究および趣味の領域にわたる知的好奇心を元に、有機的な出会いの場が生まれ、相互の交流や企画提案、また自らの表現・実践など、「民俗学知」を意識的に活用した結果として、人々に直接的に喜ばれる社会的実践へと繋がっていった。
 発表では、これまでの公的また私的な自分の経験を通して、芸能・祭礼の研究者と地域社会や実演者との間にある一線のあり方や、フィールドの捉え方、その関係性について、今後の一つの有り様を示すことが出来ればと思う。