2010年度年次大会

2010年度年次大会

日時:2010年5月22日(土)10:00~18:00
場所:成城大学 321教室

(1)会員総会 10:00~11:30

(2)年次大会シンポジウム 13:30~17:30

「21世紀の民俗宗教論 逸脱と差異のフィールドへ」

登壇者:
 真野 俊和(日本民俗学会会員)「演劇する宗教 ―四国遍路の役柄理論―」
 関根 康正(日本女子大学)「現代民俗における宗教共同体という代価 ―フォークロアをめぐる表象(パッケージ化)と表現(ストリート化)―」
コメンテーター:
 好井 裕明(筑波大学)
司会:
 島村 恭則(関西学院大学)
コーディネーター:
 石本 敏也(聖徳大学)

趣旨:

 近代知識人の見通しとは裏腹に、21 世紀の今日において「宗教的なるもの」は衰退するどころかむしろ活性化し、アクチュアルなものとして我々の眼前に存在しています。このことには明らかにグローバリゼーションによる異文化接触の拡大が影を落としていますが、こうした状況下、民俗宗教論が果たすべき役割はますます大きなものとなっています。
 このような現代的背景をもとに、今回のシンポジウムで問いたいのは 21 世紀にふさわしい民俗宗教論をいかに構築するか、という問題です。周知のようにこれまで民俗学は宗教をしばしば民俗文化と同一視、もしくはそれらとの親和性において問うてきました。このことは同時代を見通すにあたって功罪の両面がみとめられます。すなわち「功」とは宗教を思想や教団としてではなく、あらゆる人々がさまざまなかたちで生きる現実として主題化する、という構えにあり、その意義は無数のライフスタイルが隣り合わせに共存する現代においてもまったく減じることはありません。他方で「罪」とは生活世界との親和性を強調するあまり、日常をいわば超脱し、時に破壊してゆくような契機を取りこぼす点にあります。ことに現代宗教のボーダーレスな活動や新興宗教の沸騰、思想的先鋭化による原理主義への転化、はたまた宗教を根拠とする社会対立といった現代的状況について、民俗学にはほとんど準備がない状況といえるでしょう。言いかえれば、民俗学の宗教研究のこれからは、これまでの蓄積を最大化しつつ、いかに眼前の 21 世紀世界を主題化しえるかにかかっています。
 本シンポジウムでは、この目的のために「逸脱」と「差異」という視点からの議論の方向性を提示したいと考えます。これは現状を批判し革新していくような宗教の力への注視と、生活世界に編み込まれた異質さそのものの対象化を目指す試みということができます。民俗宗教論の基礎づけに関する議論が滞留してすでに久しい状況ですが、宗教をめぐる考察の現在においてこそ重く、かつ急がれねばならないことは疑いえません。このシンポジウムがそのための対話の着火点となることを願います。

 このシンポジウムにお招きする真野俊和氏が数多くの研究によって論じてきたのは、生活世界に在ってそれらと交渉しつつも、同時にたえずそこから逸脱していくような人々の存在でした。かくある逸脱する宗教者たちが一般社会とむすんだ関係とは、尊敬や崇拝から警戒、敵意にいたるまでおよそ一様ではなく、影響力も様々でした。しかし、ときに歴史上の宗教運動として発露したように、人々に潜勢する渇望と表裏一体の関係にあることは疑いえません。このように日常と逸脱、差異と救済をともに視野にする氏の民俗宗教のモチーフは、画一化と多様化という相矛盾する性格に特徴づけられた現代のライフスタイルを根本的に問い返していくにあたって、有効な枠組みとなりうるのではないでしょうか。
 つぎにお招きする関根康正氏は、現代インドをフィールドに、いままさに大きなうねりのなかにある宗教運動の現場に立ち、単純化に抗しながら、人々の生へとアプローチする試みを実践しつづけている人類学者です。近著において氏は宗教対立を正面から見据え、「宗教」を人々を動員し境界線を生み出していくものとして位置づけつつ、逆にまた同時に宗教の現場には共同性をみちびき、対立を解体していく契機がはらまれていることを示し、その両義的なダイナミズムへの注視を促しています。また近年ではこのような問題を「ストリート」概念から再構成し、議論を多くの研究者へとひらきながら、同時代の主題化に挑み続けています。
 そしてコメンテーターとして社会学者の好井裕明氏をお招きしたのは、21 世紀とは、「国家」や「民族」といった、これまで自明であった集合性が融解し、多様なライフスタイルがモザイクのように共存する時代となるだろう、という見通しと関わっています。「政治性」批判を想起するまでもなく、いま民俗学に求められているのは静的・固定的な共同性にとらわれず、人のつながりを根底から捉えかえすための思考であり、それは民俗宗教論でも同じであるでしょう。このとき「社会」を差異化と排斥、抵抗と逸脱がたえず働きつづける生活世界のうごめきとして捉えようとするエスノメソドロジーという手法に教わることは少なくないといえます。根本的な問いやキーワードの提起を期した報告を迎えるにあたり、氏には第三の視点からの見解を求め、議論の実質化への助力をたまわりたく考えます。

真野 俊和 「演劇する宗教 ―四国遍路の役柄理論―」

【要旨】
 「役割」と「役柄」はよく似た言葉である。しかし社会的文脈のもとではおよそ正反対をむいているといってよい。前者は社会がシステムとして機能するために重要な意義をもつと考えられてきた。ところが後者はむしろ社会的日常からの逸脱に大きな特徴がある。そして民俗学がかねて論じてきたように、文化は逸脱という局面と無縁ではいられない。たとえば巡礼を論じるにあたっても、その非日常性、つまり日常からの逸脱が常に主題化されてきた。私は本シンポジウムで、四国遍路を舞台に様々な「役柄=逸脱」を演じる人々について語ろうと思う。そして実をいえば、ひとたび「役柄」という側面に視野が開かれた時、文化論は新しい相貌を呈するはずである。

関根 康正 「現代民俗における宗教共同体という代価 ―フォークロアをめぐる表象(パッケージ化)と表現(ストリート化)―」

【要旨】
 フォークロアは日常生活を生きる知恵の集積である。それは生きられた動的なものであることを本質に有する。フォークロアは他性を包含するダイナミズムを内包している。そのダイナミズムは、社会で生産され流通する支配的な表象を逆手に取るように元手にした表現行為と考えられる。その主語は個人であるが、個人は共同体と無縁ではいられない。個人は共同体であるとともにそこからのブレを生産する存在でもある。

 現代世界は、個人の意識において、少なくとも民族と宗教が「類化のマジック」を引き起こしやすい時代を迎えている。人にはパン(経済的保障)が必要である。パンがあればないよりも世界と自分の関係を見るとき余裕が生まれる。しかし、人はパンのみでは生きられない。人はアイデンティティを求め、エロスの高度化を試み続ける。そこに民族と宗教が召喚される。つまり再帰性を強める現代世界を生きる人々にとっての容易ならざる問題は、経済問題もからまりながら、人々がアイデンティティを求めて彷徨っていることである。現代民俗は、フォークロアの本質を貫く、この未踏の領域への挑戦の軌跡になるはずである。

(3)会員総会(第二部)17:30~18:00