第72回研究会 1950〜1960年代の民俗芸能を再考する
第72回研究会 1950〜1960年代の民俗芸能を再考する
日時:2024年2月3日(土)14:00~17:00
開催方法:開催方法:Zoomによるオンライン開催。非会員については参加には事前登録が必要となります。
趣旨説明:
伊藤純(川村学園女子大学)
発表者:
黛友明(香川県立ミュージアム)
「隠れた文脈から考える民俗芸能―伝統芸術の会の周辺から―」
伊藤純
「研究から実演へ―宝塚歌劇団とわらび座とその評価をめぐって―」
コメンテーター:
高田雅士(駒澤大学)
松岡薫(天理大学)
福田裕美(東京音楽大学)
コーディネーター:
伊藤純・松岡薫
参加方法:
- ■現代民俗学会会員の方には、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします。
- ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。
【参加登録について】
- ■非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、研究会にご参加を希望される方は、こちらのフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
- ■登録後 、ZoomミーティングのID・パスコードを含む参加情報メールをお送りいたします。メールをなくさないようにご注意ください。
- ■参加情報メールに書かれている注意事項をよくご確認のうえでご参加ください。
- ■参加情報のメールを紛失された方は、改めて参加登録をお願いいたします。
- ■本会の会員メーリングリストにご登録をいただいている方は、研究会前日までに会員向けメーリングリストを通じてミーティングURLとパスコードを含む参加情報をご案内いたしますので、参加登録をいただく必要はございません。
趣旨:
民俗芸能は民俗学・文化人類学・歴史学・音楽学・演劇学・社会学など様々な分野からのアプローチがなされてきた研究対象である。また、アカデミズムの対象としてだけでなく、文化財保護・観光資源化・実演家による舞台化など様々取り組みや実践とも交叉しながら展開してきた分野でもある。
本研究会では一見すると別々に展開したように見える数々の研究と実践とを、それらの思想的源流を辿りながら整理していく。とくに、戦後の研究と実践の黎明期であり、それらの方向性を示したと考えられる1950〜1960年代の研究・実践団体の活動に注目する。具体的には民俗学者・歴史学者・演劇学者・実演家らの多くが参加した伝統芸術の会、戦後の民俗芸能研究の中心的人物が多く参加した民俗芸能の会、独自の民俗芸能の舞台化を行ったわらび座・宝塚歌劇団について取り上げる。当時の各団体の機関紙では民俗/民族、芸能/芸術、伝統、国民文化といった概念が検討されていた。これら鍵概念を当時の文脈から問い直し、現代にどのように継承・断絶されたかを検討する機会としたい。またコメント・ディスカッションを通して単なる民俗芸能研究や文化運動研究に限定することなく、歴史的・文化的な広がりと交叉のなかで議論していく。
発表要旨:
黛友明
「隠れた文脈から考える民俗芸能―伝統芸術の会の周辺から―」
伝統芸術の会は、1947年頃から尾上九朗右衛門、南博、藤波光夫を中心に開かれていた会合を発端とし、1950年にこの名称となって本格的に活動を開始した。1950年代は日本共産党の影響下で国民的歴史学運動や文化運動が展開されていたが、この会もその潮流のなかにあった。「民族(民衆)文化」としての伝統芸能の再創造を企図し、能・狂言・歌舞伎・日本舞踊といった伝統芸能の実演家やそれに関心を持つ多方面の研究者が集い議論する場となっていったのである。研究者のなかには、郡司正勝、廣末保、三隅治雄といった民俗学の成果を積極的に芸能研究に取り入れていった人たちも含まれていた。
今回の報告では、会誌『伝統芸術』をもとに1950〜60年代の伝統芸術の会の活動を概観したのち、この会が編集した『伝統芸術講座』(1954〜56)、『伝統と現代』(1968〜71)という二つのシリーズ本のうち、『民俗芸能』の巻を中心に検討する。実質的な代表者でもあった南博は、設立当初は「左からの民族論」があったが、1955年以降はそのようなイデオロギーから自由になったものの、運営としては「鑑賞者中心主義」を取らざるを得なくなったと振り返っている(『伝統芸術』第88号)。同時代の思想的な状況も視野に入れながら、伝統芸術の会を通じて、「民俗芸能」の研究をめぐる隠れた文脈を掘り起こしていきたい。
伊藤純
「研究から実演へ―宝塚歌劇団とわらび座とその評価をめぐって―」
1952年(昭和27)年、本田安次を中心として西角井正慶・宮尾しげを・池田彌三郎・郡司正勝・三隅治雄などが参加し民俗芸能の会が発足する。民俗芸能の会からは『藝能復興』(1962年、20号から『民俗芸能』と改題)が発行され、これは『民俗藝術』(1927年〜1932年)の事実上の後継誌で、戦後民俗芸能研究の中心となった。民俗芸能の会は、芸能史研究ばかりでなく、「新日本藝能の樹立」が会則として掲げられ、『民俗芸能』でも民俗芸能大会やアジア民族芸能大会、日本民俗舞踊協会・国際芸術家センターといった民俗芸能を舞台化させた公演を積極的に誌面に取り上げている。特に国際芸術家センター(1962年〜)は実演家だけでなく、民俗芸能研究者・演劇学者・音楽学者らが参加する大事業で、『民俗芸能』ではこうした舞台化と無形文化財保護の文脈のもとで、国立民俗舞踊団の設立も検討された。
一方で戦前には東宝舞踊隊が、戦後には宝塚歌劇団「日本郷土芸能研究会」(1958年〜)が民俗芸能を取材し舞台化を行っている。宝塚では国民文化の樹立を目指して「日本民俗舞踊シリーズ」(1958年〜1969年)・「日本民族舞踊シリーズ(1969年〜1978年)の制作が行われた。また、1950年代後半から1960年代にかけては日本共産党の文化工作隊としてのわらび座が積極的に民俗芸能を舞台化させた。この実践はのちの民族舞踊教育運動(民舞教育)に引き継がれていく。実演家らの実践形態や理念はさまざまであり、そこには径庭もあるが、民俗芸能という対象は当時の彼らにとって既存の価値観にはない魅力的で可能性に満ちた対象であり、また敗戦後の占領期に問題化された封建遺制と伝統の問題を克服するための実践の題材でもあった。