第31回研究会 他者の中の日本像

第31回研究会 他者の中の日本像 ―複層化する台湾の『民俗学』的視線―

日 時: 2016年3月6日(日)13:00~
会 場:成城大学 3号館311教室
発表者:
 明田川聡士(東京大学大学院/台湾文学)
 鈴木洋平(東京都市大学/民俗学・文化人類学)
 水口拓寿(武蔵大学/中国思想文化学・台湾文化研究)
コメンテーター:
 西村一之(日本女子大学)
コーディネーター:
 鈴木洋平(東京都市大学/民俗学・文化人類学)

趣旨:

 近年の台湾では、自分達の地域を自分達の手で描き直す新たな視線構築への試みが生まれつつある。かつての日本統治期に対しても、よりフラットな視線から過去を見直そうとする研究が多様な形で示されている。こうした自分達を含む歴史を描こうとする郷土研究の底流には「文史工作者」ら有志による地域への関心があった。自分たちの地域を見つめ、その歴史と向き合おうとする今の台湾のエネルギーは、日本民俗学が日本という地域を見つめてきた視線と共鳴し得る。
 台湾における郷土研究は、1980年代末から民主化の状況に歩を合わせるように登場し、総合的な研究へと広がっていった。台湾は長らく、中国王朝期の「正史」という側面から見れば記述の対象外とされるような地域であった。植民地統治の必要という明確な目的を持っていたにせよ、その地と向き合い膨大な記録を残した時期として、台湾における日本統治期が残したものの活用が進められている。戦前に刊行された雑誌『民俗台湾』などをはじめとする日本統治期の民俗学的雑誌・文献も資料として改めて見直されつつある。
 自文化研究者としての民俗学者、そしてかつての当事者・資料作成者としての日本人。二つの側面から、日本民俗学が台湾における民俗学的研究に関わることの意義は高まりつつある。台湾における民俗学的視線とは、日本と台湾をめぐる自分自身、そして他者として互いを眺める視線の交錯の歴史でもあった。また、台湾を舞台に民俗学的視線について考えることは、柳田国男が民俗学の視野としては「少し程遠い話」としていた他地域の自文化研究に視線を合わせることでもある。台湾という地域は、かつての民俗学的思考の蓄積、そして学問技法としての民俗学が試される場と言えよう。
 本研究会では、台湾で見られる「自己に向けられる視線」の多様なあり方を紹介しながら、各時代に描かれた、あるいは意図的に描かれなかった「日本」を媒介として、等身大の台湾との距離感について考える。「自分自身をどう捉え、どう描くか」という問題を通して、民俗学というものが持つ対話可能性について考えていきたい。

明田川聡士(東京大学大学院/台湾文学)
「戦後台湾文学における「皇民」表象」
 台湾では戦前、特に日中戦争の開戦以降には、台湾人の戦争動員の必要から台湾総督府を頂点とするさまざまな運動を通して日本への同化がはかられた。「皇民化運動」は日本の敗戦まで継続し、国民党による統治の開始に伴い「皇民」たる人物は存在しなくなったが、その爪痕は後の台湾社会にも遺り続けている。言うまでも無く、現代台湾社会においても「皇民」という言葉は、極めて否定的でネガティブな意味を持つ。但し、こうした皇民をめぐる言説や評価、表象が時代とともに変遷したことも事実であり、その事実は台湾人・台湾社会を理解する上でも留意する必要がある。
 本発表では、かつて親日文学として否定された皇民化運動期の「皇民文学」が、1970年代末に突如脚光を浴びたことに注目し、当時の複層的な社会・文化環境の中で、皇民という表象が如何に解釈されたのかを考察する。

鈴木洋平(東京都市大学/民俗学・文化人類学)
「「日式墓」推移と選択される日本要素」
 台湾で墓地の調査をしていると「日本人の墓があるぞ」と案内されることがある。その多くが棹石を持った形式の墓で、台湾では研究上「日式墓」などと分類される様式の墓である。その多くは「日本人の墓」ではなく、台湾の人々のために建てられ、日本統治期より作られてきた。「日式墓」は台湾各地で様々な人々により、断続的に作られながら今に至っている。それぞれの日式墓には、棹石を建てるなどの形式的な特徴を除き、必ずしも共有するものはない。「日式墓」を一つの形式として分析することは困難であり、各世代が行った選択と、その後の子孫による向き合いの累積を見えにくくする。
 本発表では、時代ごとに異なる意味を持つ日式墓が建てられる過程と、建立以後の遺族による対応の変化を検討する。墓を祀る主体となる各時代ごとの生存者が、自分達の墓、そして日式墓という存在にどのように向き合ってきたか。台湾に生まれた個々人が日本的要素を積極的に取り込み、「日本人の墓」とも呼ばれるような墓への意味づけを読み替えていく過程を検討したい。

水口拓寿(武蔵大学/中国思想文化学・台湾文化研究)
「台湾における「孔子廟と日本」の120年―或いは「自己と他者の連続と断絶」をめぐる言説史―」
 孔子廟は儒教に属する施設であり、孔子とその高弟などを神として祀る。台湾に現存する孔子廟は、数え方にもよるが40余りに達し、それらは清朝統治下で建立されたもの(台南・彰化など)、日本統治下で建立されたもの(台北・日月潭など)、国民政府統治下で建立されたもの(高雄〈左営〉・台中など)に分かれる。
1895年~1945年の間、統治者としての日本は、初めは各地で孔子廟を廃し、次にはそれらの再興を主導或いは援助し、また祭祀儀礼に官僚を出席させ、最後には儀礼内容の日本化(神道化や日本語化)を図った。やがて1960年代後半から、国民政府による中華文化復興運動の一環として、祭祀儀礼の官営行事化と、政府による孔子廟の接収や新規設置が相次いで行われたが、こうして再び統治者の強い管理下に置かれた台湾の孔子廟では、特に台北孔子廟の祭祀儀礼において、日本人の参列や日本語による経典朗読(北京語・英語・韓国語による朗読と並んで)など、改めて隣国日本との結び付きを生じるようになった。
この120年間に台湾の孔子廟を「統治」した者たちは、日本側にせよ台湾側にせよ、儒教を日本と台湾(或いは日本と「中華」)に共通の文化であると措定した上で、自己と他者の連続や同質性をアピールする場として、孔子廟を各者各様に利用したと見ることができる。その一方で、孔子廟に対する彼らの関心は、むしろ彼らに両者の断絶や異質性を意識させる場合もあった。本発表では、このように孔子廟をめぐって「自己と他者の連続と断絶」という観点から発せられた言説を、それぞれの時代や立場を踏まえながら追跡し整理する。

■主催:現代民俗学会