現代民俗学会The Society of Living Folkloreは民俗学に関心をもつ多様な人々で構成され、定期的な研究会の開催と『現代民俗学研究』誌の刊行を主な事業として民俗学の尖鋭化・実質化・国際化に取り組んでいます

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本会が定期的に開催している研究会のご案内 > 過去に開催された本会研究会について

このページには現在、2011年以前に開催された研究会の情報を掲載しています。近日開催予定、もしくは最近開催された研究会についてはリンク先をごらんください。
所期の予定では2011年3月19日に開催を予定しておりました第9回研究会「民俗学は政治をとらえうるのか?(連続企画・政治と民俗学①)は、同3月11日における東日本大震災の発生に伴い延期となりました。このため本ページの回送り表記は一部、アナウンス時のものと異なっていることがあります。ご了承ください。

第12回研究会 ローカル・ガバナンスと地域社会(シリーズ 政治と民俗学2)

サンプル 日時:2011年12月11日(日)13:00~
場所:お茶の水女子大学 大学本館第7講義室(2階209号室)
表題:ローカル・ガバナンスと地域社会(シリーズ 政治と民俗学2)
発表者:
 船戸修一(静岡文化芸術大学文化政策学部専任講師)
    「都市における農業用水の維持管理の現状とそのローカル・ガバナンス形成への課題 ―東京都日野市の『豊田堀之内用水組合』の事例から―」
 門田岳久(日本学術振興会特別研究員)・ 小西公大(東京外国語大学現代インド研究センター特定研究員)
    「「寄合民主主義」とローカル・ガバナンス ―廃校舎再利用をめぐる住民参加と合意形成のゆくえ」
コメンテーター:
 宮崎文彦(千葉大学国際教育センター特任研究員)
司会:
 室井康成(東京大学東洋文化研究所特任研究員)

趣旨

 近年地方分権化や新たな公共性の創出にともなって,従来集権的な行政組織内部で行われてきた地域社会に関わる政策の策定を,地域住民自らが主体となりその過程に参入しようとする新しい政治現象が生じつつある。この動きは一般にローカル・ガバナンスと呼ばれるが,この概念は統治組織(ガバメント)から統治過程(ガバナンス)へと着目点を移行させ,住民と行政,それに住民と住民の間の相互行為や議論の過程を重視する概念である。ローカル・ガバナンスの進展はとりわけ地域福祉や医療,観光開発(街作り),農業開発といった住民生活に直接つながる分野で目立っており,その点をもって,ローカル・ガバナンスの問題が単に行政や政治の変化を示すだけでなく,人々の生き方や生活を考える学問としての民俗学の課題でもあると言えるのである。
 もちろん民俗学はこれまで,あえてこのような概念を使わずとも村落社会における自治としての「政策」策定過程の研究を,例えば水利慣行の研究,宮座や寄り合いにおける意思決定の過程の研究として蓄積を果たしてきた。ただ村落政治の研究がローカル・ガバナンス研究と異なるのは,前者があくまで共同体の秩序を再生産する慣習的政治として捉えられていたのに対し,後者は住民と行政が対等な立場で向きあう中から,開かれた共同体の再組織化を構想する点で,未来の社会像に大きな差異を見ることができる点である。
 問題は,多くのローカル・ガバナンス論者が想定するほど現実の地域社会は「開かれた」未来へと前進しうるほど円滑でも,またプラクティカルに問題解決が行われるわけでもなく,地域内部の文化・自然資源を活用して地域政治が図られる以上,地域内部の既存の社会関係や慣習にガバナンスのあり方が左右されることが多いということである。「政治と民俗学」を主題とした本年度の本学会研究大会シンポジウム(5月)では,草創期の民俗学が民衆を政治的主体として立ち上がらせる政策科学としての性格を有していたことが明らかにされたが,今回の研究会では政策的理念や新たな社会像の基礎となるような,「政治」が人々の生活の局面で稼働するもっともミクロな力学について,精緻なフィールドワークの成果から紐解いていく。発表者には,農村社会学・地域社会学の立場から農本主義や有機農業運動といった近現代社会における人と「農」との新たな関係を明らかにしてきた船戸修一氏と,廃校舎の再利用を契機に街作りを行う住民や行政の活動に民俗学・人類学・歴史学の共同研究を通じて実践的に関わってきた門田岳久・小西公大両氏,そしてコメンテーターには政治哲学を専門とする宮崎文彦氏を迎え,地域社会からガバナンスをまなざすことの意義,そして民俗学がローカル・ガバナンスの現場や新たな社会像の創出にどう関わっていけるのかを議論したい。

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第11回研究会 公共民俗学とはなにか ―社会における知的実践のかたち―

サンプル 日時:2011年9月10日(日)13:00~18:00
場所:成城大学 3号館321教室
表題:公共民俗学とはなにか ―社会における知的実践のかたち―
基調講演:
 ロバート・バロン(Robert Baron)(New York State Council on the Arts)
   「アメリカの公共民俗学―その課題と実践、そして展望―」
パネリスト:
 菅豊(東京大学)「公共民俗学 ―社会における民俗学の再定置―」
 吉村亜弥子(ウィスコンシン州立大学大学院)「ウィスコンシン州の公共民俗学実践とその教育」
コメンテーター:
 小長谷英代(長崎県立大学)・橋本裕之(盛岡大学)

■コーディネーター:菅豊(東京大学)、小熊誠(神奈川大学)
■共催:日本民俗学会、現代民俗学会、公共民俗学研究会(科研基盤(B)「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」)
■その他:英語の講演、討論には通訳がつきます。

趣旨

 公共民俗学(Public Folklore)は、現代アメリカ民俗学の重要な方向性です。それは1980年代から本格的に存在感を増し、いまではアメリカ民俗学の大きな潮流の一つとなっています。古くは芸術や文化、あるいは教育などに関する非大学の組織・機関での、応用的見地からなされる民俗学的な研究や活動を、それは意味していましたが、現在では公共機関の専門家のみならず、大学の研究者や、在野の研究者、市民なども協働する民俗学的活動に発展しています。それは「伝統の担い手と民俗学者、あるいは文化に関する専門家との協働的な取り組みを通じて、コミュニティ内部、あるいはコミュニティを越えて表れる新しい輪郭線と文脈のなかにある民衆伝統(folk traditions)を表象し応用する」〔Baron and Spitzer 1992〕民俗学であるといえます。公共民俗学では、具体的な社会実践のみならず、「擁護(advocacy)」や「文化の客体化(cultural objectification)」「介入(intervention)」「文化の仲介(cultural brokerage)」といった、民俗学が文化を考える上で重要なキーワードを再検討する理論研究も展開されてきました。それらは、社会実践を含め日本の民俗学にも通底する重要課題です。
 今回、アメリカ公共民俗学のオピニオン・リーダーの一人であるロバート・バロン氏をお招きし、その基調講演を中心に公共民俗学の具体的論点、社会実践の実態、今後の展望、そして日本民俗学における公共民俗学の可能性について討議します。(文責:菅豊)

基調講演者の紹介:ロバート・バロン(Robert Baron)

ニューヨーク州芸術評議会(New York State Council on the Arts)上級プログラム・オフィサー。ペンシルバニア大学でfolklore and folklifeのPh. D.を取得し、ハーバード大学のW.E.B. Du Boisアフリカン-アメリカン研究所のフェロー、フルブライト基金のシニア・スペシャリスト、中大西洋フォークライフ協議会(The Middle Atlantic Folklife Association)会長などを歴任し、2002年にはアメリカ民俗学会からパブリック・フォークロアの優れた業績に与えられるBenjamin A. Botkin賞を授与される。
 同氏は、アメリカ民俗学界のなかで大きな地位を占める公共民俗学者の中心的存在として活躍し、現在、ニューヨークにおいて公共民俗学の実践に携わる他、博物館における諸活動の実践と理論、さらに無形文化遺産保護政策に関して、アメリカのみならず日本や中国などでも調査研究を行っている。主著に、Public Folklore (1992, University Press of Mississippi, Nick Spitzerとの共編)、Sins of Objectification? Agency, Mediation, and Community Cultural Self-Determination in Public Folklore and Cultural Tourism Programming (Journal of American Folklore 123 (2010))など

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第10回研究会 「オーラリティ」の実践と方法的課題 ―「聞き書き」をめぐる民俗学と歴史学の対話から―

サンプル 日時:2011年7月23日(土)13:00~18:00
場所:成城大学 8号館832教室
表題:「オーラリティ」の実践と方法的課題 ―「聞き書き」をめぐる民俗学と歴史学の対話から―」(連続企画「民俗学におけるオーラリティの位相(1)
発表者:
 大門正克(横浜国立大学 経済学部・教授)「人に話を聞くということは、どういうことなのだろうか ―歴史学における現場から―」
 野口憲一 (日本大学大学院文学研究科・博士後期課程)「彼女たちと私の農産物直売所」
コメンテーター:
 中野紀和(大東文化大学 経営学部・教授)

■コーディネーター:小熊誠(神奈川大学)、中野泰(筑波大学)

趣旨

 民俗学は、「オーラリティ(口述性)」の理論と方法をどのように検討することができるのであろうか。  21世紀を迎え、「オーラリティ」の検討が盛んになっている。複数の大学では公的助成金に基づく大型プロジェクト(共同研究)が、学会では、歴史学、社会学、文化人類学、民俗学、教育学などの個別学問領域を横断的につなぐ日本オーラル・ヒストリー学会(2003年)が創立され、「オーラリティ」へ対する学際的考察は幅と厚みを広げている。
 民俗学も口述資料を蓄積し、研究へ活用してきた。1980年代以降、聞き書きが営まれる「場」を俎上にあげ、パラダイム転換を促す問題意識が生まれ、近年は、都市民俗学や民間信仰・宗教研究などでライフヒストリーや語り/物語(ナラティブ)アプローチを採用したり、口承文芸研究において〈口承〉研究への転身を図ったりする試みが行われている。語りの内容に加え、いかに語るかという語りのあり方やその場自体が検討の対象となりつつある。社会学、人類学など隣接科学の方法や理論の影響を受け、とりわけ、社会構成主義的な関心が増すことで、既存の研究枠組みの転換を図る意欲的試みが進行中と言える。
 ところが、残念なことに、日本民俗学会においては、「オーラリティ」を共通テーマとする年次大会や分科会を開いたことがない。聞き書きという手法を採用してきた民俗学にとって、「オーラリティ」の問題性は、個別ジャンルの調査分析に必要な限定的課題ではなく、学全体に通じるものであるにもかかわらず、現在の研究状況は、個別分野の局面に止まっているのである。「オーラリティ」の問題性を正面から検討する機は熟しており、民俗学は学会全体の課題として総合的に検討することが求められている。
 研究会の問題意識は、次の大枠にまとめることができる。「オーラリティ」とは何か、「オーラリティ」の方法的性格はいかに整理できるのか、調査者・被調査者の非対称性はどのように取り結ばれるのか、研究成果は、誰によっていかに叙述されるのか、「オーラリティ」により「現代」についての省察はどのように深まるのか。本会は、このような問題枠組みのもと、「オーラリティ」の問題性を、特に、聞き書きやフィールドワークの「場」に関連づけ検討する。聞き書きという営為は、「オーラリティ」と密接に関係し、調査者と被調査者が直接対面するという独特で複雑な「場」を前提としているからである。
 当日は、歴史学の成果を批判的に学びながら進めたい。民俗学は、聞き書きという複雑な営みを捉え直すことで、「オーラリティ」についての視角や方法の総合的検討を進め、「現代」に迫っていかなければならないからである。一人目の登壇者は、ライフヒストリーを用いた歴史学的方法を切り開かれている大門正克氏に、現代史の立場からお話していただく。カウンター・パネリストは民俗学の立場から、フィールドワークの複雑な「場」や「当事者」論へ精力的に取り組んでおられる野口憲一氏にお話いただく。コメンテーターは、都市をフィールドとし、祭礼、記憶や語りの研究を展開されている中野紀和氏にお願いした。(文責:中野泰)


大門正克(横浜国立大学 経済学部・教授)
 「人に話を聞くということは、どういうことなのだろうか ―歴史学における現場から―」

【要旨】
 「オーラリティ」をめぐって民俗学と歴史学で対話するにあたり、あらためて、人に話を聞くということはどういうことなのか、ということを考えてみたい。「オーラリティ」は、語り手と聞き手の関係のなかで成立する。両者の関係を支えているのは、人に話を聞くという行為である。「オーラリティ」は、人に話を「聞く」ということがあってはじめて成り立つ。そこに「オーラリティ」の始原があるはずである。では、人に話を聞くということは、どういうことなのだろうか。報告ではそこに立ち戻って「オーラリティ」について考えてみたい。報告では私の聞き取りの経験を振り返り、聞き取りのなかで聞こえてきた声や聞きえなかった声、つきつけられた声などをたどるなかで、歴史学にとっての「オーラリティ」を考え、対話のきっかけにしたい。

野口憲一(日本大学 大学院文学研究科・博士後期課程)
 「彼女たちと私の農産物直売所」

【要旨】
 本報告では、以下の事例を通じて「オーラリティ」の問題について検討する。
 本報告では、先ず、近年、農村・農業研究において横行している「農村・農業のロマンティックな記述スタイル」に則して、農産物直売所を運営する女性達の実践の民族誌的研究を行う。
 このような研究は、当該スタイルが、いわばアカデミズムにおけるモデル・ストーリーであるため、女性達の語りの抑圧の上に成立している。しかし、女性達は、必ずしも当該スタイルの抑圧的な機能に従属するだけではなく、時としてこれに反発し、「新しい声」を発することもある。次に、女性たちが報告者に対して発した「新しい声」の描写を軸に、報告者の調査の在り方を反省的に見直す作業を行う。
 その上で、研究者は、フィールドにおいて「語られないこと」や「語りえないこと」についてどのようにアクセスしていくのかについて検討する。本報告では、それらにアクセスするための根拠や要件として、研究者の「当事者性」について言及する。

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【東日本大震災のため開催中止】第9回研究会 民俗学は政治をとらえうるのか?(連続企画・政治と民俗学1)

サンプル 日時:2011年3月19日(土)13:00~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
表題:民俗学は政治をとらえうるのか?(連続企画・政治と民俗学1)
発表者:
 船戸修一(法政大学サステイナビリティ研究教育機構・リサーチ・アドミニストレータ)
    「都市における農業用水の維持管理の現状とそのローカル・ガバナンス形成への課題 ―東京都日野市の「豊田堀之内用水組合」の事例から―」
 柏木亨介 (聖学院大学・非常勤講師) 「来るべき社会の構築とアイデンティティ ―2010年台湾五大都市選挙を通して―」
コメンテーター:
 宮崎文彦(千葉大学国際教育センター特任研究員)

■コーディネーター:門田岳久(日本学術振興会・特別研究員)、室井康成(東京大学東洋文化研究所・特任研究員)
■主催/共催:現代民俗学会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会

趣旨

 民俗学の、いわゆる「耐用年数超過説」が提起されてから、早や15年が経過しました。曰く「調査すべき“民俗”など、すでに日本から消滅した」、曰く「社会の民俗学に対する需要は絶えて久しい」等々。しかしながら、この学問に対するそうした悲観的言説が説得力をもつ一方、マスメディアや、あるいはそれと「共同正犯」的な言辞を繰り出してきた一部の研究者の活動によって、近年の民俗学は逆に奇妙な存在感を発揮してきたと言えるでしょう。だからといって、民俗学が光彩を放つ余地は今後もいや増すであろう、と考えるのは早計です。なぜなら、巷間で描かれ、もしくは「あって欲しいもの」として希求される「民俗」とは、限りなく静的な歴史的存在であり、あるいは外部からの批判を許さない審美的な「ありがたいもの」としてのそれだからであり、いわゆる「眼前の疑問」にどう答えるかという、斯学の草創期の研究者たちが抱いたリアリズムが、そこには全くと言っていいほど欠落しているからです。
 ひと口に「眼前の事実」と言っても、一様ではありませんが、貧困・自殺・格差社会・国際紛争など、今日でもニュースとして流れ、世相として具現する「眼前の事実」は、すなわち草創期の民俗学においては研究対象でした。それらは概して「政治」により結果した事象であるとも言え、その意味においては、当初の民俗学研究は、同時に政治研究であったとも言えなくもありません。「耐用年数超過説」の論者が説くように、とりわけ民俗学のアカデミズム化の過程で何らかの「後退」があったのだとすれば、それは「政治」と向き合う努力、もしくは視点を忘却したからなのではないでしょうか。
 もっとも、上述した民俗学草創期の初志と通底する問題意識をもった研究が、現在ではまったく行われていないというわけではありません。近年の世界遺産・文化財行政をめぐる政治の動きや、それと関わる社会思想を解析しようという取り組みや、いわゆる「公共民俗学」の構築を模索しようという知的潮流がそれです。しかし、もっとラディカルに政治を知ろうとすれば、私たちの思考・判断を現実政治に反映させ得るほとんど唯一の機会である選挙や、小集団内における人々の合意形成のプロセスを腑分けする必要があるでしょう。
 そこで今回の研究会では、長年、農村社会学の立場から住民運動や協同組合のあり方を研究してこられ、また日本の近代農政の思想史的背景にも詳しい舩戸修一氏と、民俗学の立場から人々の合意形成の契機・過程について強い関心を持ちつつ研究を進めてこられた柏木亨介氏のお二人を迎えて、民俗学における政治研究の可能性について、議論を行いたいと思います。そして、それらの研究が、現行の政治研究についてどのような貢献が出来るのか、政治学(公共哲学)がご専門の宮崎文彦氏からコメントを頂きます。
  なお今回の研究会は、現代民俗学会2011年度年次大会(2011年5月)のプレシンポジウムとして開催されます。(文責:室井康成)


舩戸修一(法政大学サステイナビリティ研究教育機構・リサーチ・アドミニストレータ)
 「都市における農業用水の維持管理の現状とそのローカル・ガバナンス形成への課題 ―東京都日野市の「豊田堀之内用水組合」の事例から―」

【要旨】
 昨今、地域資源をいかしたまちづくりが模索されている。その際、その管理をめぐる住民・ 行政の協働やローカル・ ガバナンスが求められる。そこで本報告では、東京都日野市の農業用水の維持管理に注目する。日野市には中世から近世にかけて開削された農業用水が張り巡らされていたが、都市化によって農業用水は埋め立てられていった。一方、日野市は「清流条例」や全国で唯一の「水路清流課」を設けるなど用水をいかしたまちづくりを展開してきた。また用水組合員だけでなく市民も参加する用水の維持管理を図ってきた。こうした経緯を踏まえ、本報告では日野市内における主な用水路として「豊田用水」をとりあげ、その用水の利用や維持管理にかかわる多様なアクター、具体的には用水組合員(農家や元農家)、援農ボランティアや用水守などの市民(非農家)、行政などの聞き取り調査から協働をめぐるアクター間の一致点や“ズレ”を明らかにし、都市近郊における地域資源管理をめぐる現状や課題を指摘する。

柏木亨介(聖学院大学・非常勤講師)
 「来るべき社会の構築とアイデンティティ ―2010年台湾五大都市選挙を通して―」

【要旨】
 東アジアに目を向けると、経済交流こそ活発であれ、人びとは国民国家によって分断され、その政治体制や民族構成など、互いに異なる社会に身を置いて生活していることがわかる。この状況を認識することは、おもに自国の事例で論を組み立ててきた日本の民俗学が、今後国際化を目指すうえでの必須のプロセスである。
 台湾は、その歴史的経緯から本省人、外省人、原住民という民族帰属意識や、政党(国民党・民進党)の鋭い政治的主張の対立がみられる点において、日本とは状況が大きく異なっている。当地の民俗の表象の仕方も、理想とする社会像も、こうした状況のもとに生きる人びとのアイデンティティと無縁ではない。以上の点について、昨年の台湾五大都市選挙での調査成果から検討したい。

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第8回研究会 自然保護と文化保護、何が違うのか? ―その異同を考える

サンプル 日時:2010年11月27日(土)13:00~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
表題:自然保護と文化保護、何が違うのか? ―その異同を考える
発表者:
 菅豊(東京大学・教授)「資源としての『自然』と『文化』 ―客体化され管理される対象の異質性と同質性」
 藤原辰史(東京大学・農学生命科学研究科・講師) 「ナチスの農場概念 ──「土壌・植物・動物・人間の共生」とホロコーストのあいだ」
コメンテーター:
 安室知(神奈川大学・教授)

■コーディネーター:岩本通弥(東京大学・教授)、室井康成(東京大学東洋文化研究所・特任研究員)
■主催/共催:現代民俗学会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会

趣旨

 自然資源という言葉から対比的に流通しはじめた、「文化資源」という言葉が定着し、その是非はともかくとして、文化はすでに保護から活用=資源化の時代に突入しています。その保護・保全など管理の手法にも、自然環境で用いられてきた考え方や方法が、何ら議論や検討されるもことなしに、入り込み、あるいは深く影響を与えているのかもしれません。そこで今回の研究会では、いま一度、冷静に、自然保護と生きた人間を巻き込む側面のより大きい文化保護とでは、いったい何が違うのか、これらを腑分けして、その原理的な異同を考えてみたいと思います。
 少々その歴史を振り返ってみると、日本では、1992年のユネスコの世界遺産条約へ加盟し、「文化的景観」の概念や理念が導入されて以降、それまでの指定文化財の単体保存から、バッファーゾーンを含めた保護対象の拡張がはじまって、一体的・総体的な保護と称し、対象範囲の無限的な融通性が増していったように思われます。近年では、もともとは集落周辺の二次林を指していた「里山」が、以降、山里的な景観全体に拡張されるほか、「里海」「里川」などといった言葉まで産み出され、「自然との共生」の美名の下、際限なく広がりつつあるようにも思われます。コモンズ概念にしても、アナロジカルに、文化コモンズ論に転換していくような、容易に「文化的なものと自然的なものの混同」されていく傾向が認められます。
 このような日本の現状をみるとき、まずもって想起されるのが、ナチス・ドイツにおけるエコロジー思想との類同性やその文脈拡張性です。帝国自然保護法から生活改善運動に至るまで、戦前の日本の諸施策は、ドイツをモデルに政策化された歴史的背景があるとはいえ、その奇妙な一致は、一度、俎上に載せて議論したいと思います。今研究会では、積極的に「公共民俗学」を主唱される菅豊氏と、その対論者として『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房、2005年)の著者である藤原辰史氏を迎え、根源的な問題から手法的な問題まで、全般的に扱っていきます。
 本来、自然保護にしても文化財保護にしても、無闇な開発に対して、身の回りの生活環境が危機に晒され、身辺卑近な自然や文化に思いを至らせ、その歯止めとしてはじまった市民的な住民運動から立ち上がったものも多く、それらは民俗学の初発の関心とも関連していたでしょう。文化資源という捉え方や言葉の流用で、外部からアクセスしやすい観光など、資源化の道具に資するとき、私たち民俗学者には微妙な違和感やためらいを覚えざるを得ないのが実情かと思います。藤原氏の立場も、有機農法にナチスの汚名を着せることではなく、むしろ逆であって、それが現代文明社会に問いを発する、根源的な可能性を追究されています。私たちの初発の立場と基本的に通有しており、何ものかに回収されない回路が、いかにして築けるか、それを目指す研究会趣旨であることを付記しておきます。(文責:岩本通弥)


菅豊(東京大学・東洋文化研究所・教授)
 「資源としての『自然』と『文化』 ―客体化され管理される対象の異質性と同質性」

【要旨】
 現代社会において、自然も文化もともに資源として見つめられている。従来、自然資源は、その物質的な有益性から直接資源とされてきた。しかし、現在、自然資源は、その本源的な価値とは異なる、政治や経済、社会的な位相の価値を付与され、文化資源化している。そして、自然は文化とともに、ナショナルな語りに絡め取られている。本発表では、明治神宮の「森」や、「里山」を題材に、日本の自然が「日本」の本質として文化資源化されることのポリティクスを批判しつつ、さらに、そのような本質を強調する文化資源化が、自然や文化をめぐる保護や活用という実践現場で、有効なストーリーとして用いられているディレンマについて検討する。

藤原辰史(東京大学・農学生命科学研究科・講師
 「ナチスの農場概念 ──「土壌・植物・動物・人間の共生」とホロコーストのあいだ」

【要旨】
 農場という自然と人間が交流する場を、ナチスは、伝統的な農業経済学のように「経営体」とみなすのではなく、人間が自然と共生する「有機体」と考えた。これは、19世紀のロマン主義の流れを汲む思想であり、ナチスもその系譜にあるといってよい。ナチ時代に有機農業の支持者が多数登場する背景としても重要である。この有機体論を貫徹させるには、市場原理に代わる新しい価値観の創出が必要であった。それを提供したものが、生物学や民俗学と結びついた農本主義だったと私は考えている。この思想が作り上げた価値観がどのようにナチズムの現場において合流したのか──当時の食糧農業大臣や農学者たちの思想と実践にそくして、考えてみたい。

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第7回研究会 無形文化遺産保護運動と中国民俗学 ―その可能性と課題―

サンプル 日時:2010年9月11日(土)13:00~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
表題:無形文化遺産保護運動と中国民俗学 ―その可能性と課題―
発表者:
 周星(愛知大学教授)「非物質文化遺産の保護運動と文化政策、及び「文化観」の転換 ―中国における『公共民俗学』の可能性と危険性」
 施愛東(中国社会科学院文学研究所副研究員)「中国における非物質文化遺産保護運動の民俗学への負の影響」
コメンテーター:
 西村真志葉(インディペンデント・フォークロリスト)

■コーディネーター:周星、菅豊(東京大学教授)、中野泰(筑波大学講師)
■主催/共催:現代民俗学会、公共民俗学研究会、科研「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」グループ、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会
■その他:中国語の発表、討論には通訳がつきます。お問い合わせは東京大学東洋文化研究所・菅豊(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています)までお願いいたします。

趣旨

 現在、世界の至るところでユネスコが主導する無形文化遺産(中国語:非物質文化遺産)を保護する動きが活発化しています。それは、保護する対象そのものが民俗学の研究課題であるばかりでなく、文化のグローバル・ポリティクスである保護運動までもが、重要な研究課題となっています。そして、その動きは、各国の民俗学の趨勢に大きな影響を与えています。従来、「民俗」という言葉で、その研究対象を文化から切り取ってきた民俗学は、現在、政策的に生まれた「無形文化遺産」という言葉に呑み込まれるとともに、それを一方では利用し、さらに、一方では危機感をもって受けとめています。
 今回の研究会では、日本以上に無形文化遺産保護活動が活発化している中国を題材に、その保護運動が中国の社会や民俗学にいかなる影響を与えたのか、気鋭の中国民俗学者に論じていただきます。これまで、日本の民俗学者の一部も、無形文化遺産保護政策に関与してきました。しかし、日本の民俗学は、無形文化遺産保護に関する理論的研究や実態的研究を、いまだ十分に積み重ねていません。また、その学問的影響に関する議論も、十分に積み重ねていません。無形文化遺産保護運動はグローバルな課題であり、その課題に多くの知見をもつ中国民俗学から、私たち日本の民俗学研究者は、まさに「他山の石」として多くのことを学ぶことができるでしょう。そして、中国民俗学の状況を学ぶことによって、日本において公共民俗学の観点から無形文化遺産を問い直す起点を、私たちは見定めることができるでしょう(文責:菅豊)。


周星(愛知大学教授)
 「非物質文化遺産の保護運動と文化政策、及び「文化観」の転換 ―中国における『公共民俗学』の可能性と危険性」

【要旨】
 21世紀に入って、中国では馴染みのない「非物質文化遺産」(略称:「非遺」)という言葉が突然「流行語」になった。中国は、改革開放の一環としてユネスコの関連条約に素早く加盟した。政府の「政治主導」による社会動員や、マスコミの喧噪を含めて、非物質文化遺産の保護運動が全国にわたって盛大に繰り広げられている現在、「非物質文化遺産」というカテゴリーと民俗学の研究対象とは、かなり重なっているため、数多くの民俗学者が国の文化遺産行政に巻き込まれている。民俗学者が何をもって国の文化遺産行政に参加しているのか、それは民俗学にとって何を意味しているのか、民俗学が政府の文化事業に関わることによりどんなメリットを得られたのか、何を失ってしまったのか。
 本発表では、このような中国社会における民俗学のあり方、存在感及び学問的実践の可能性という、現在まさに問い直さなければならない課題について検討する。さらに、独立した学問としての中国民俗学が、『公共民俗学』という発想・構想をどう受けとめるべきかという問題、また、文化遺産行政に呑み込まれて学問の立場や独立性を喪失するという危惧が現実になりつつある問題についても指摘したい。

施愛東(中国社会科学院文学研究所副研究員)
 「中国における非物質文化遺産保護運動の民俗学への負の影響」

【要旨】
 中国では、研究者が非物質文化遺産へ関心を示し始めたのは、2002年のことであったが、民俗学者がこの運動に関わるようになったのは、主に2003年からであり、全面的に取り組み始めたのは2005年であった。現在、非物質文化遺産保護運動に携わる研究者の多くは民俗学者である。非物質文化遺産保護運動に参加するのは、民俗学にとって回避できない社会的責任であり、学術的責任であり、また新しいチャンスでもあると、多くの中国民俗学者が考えている。
 しかし、民俗学の学科の発展から見ると、このような動きが楽観的な将来をもたらしてくれると思えない。非物質文化遺産保護は、主に行政行為であり、学術研究ではない。そして、学術研究の政治への過度な依存は、往々にして学問の独立性を犠牲にするのである。保護と研究は、違う範疇に属する概念である。民俗学の既存の方法と規範を棄て、保護運動に取り組むことは、必ず今後の民俗学研究の持続的発展に悪影響を与えよう。なぜならば、学科の重心が非物質文化遺産保護に移り、通常の研究が停滞することにより、民俗学の学問として重要性と影響力がさらに弱められるからである。
 現代中国民俗学の歴史が示すように、中国には幾度の学術運動があったが、その終息のたびに、民俗学は必ず全体的学問レベルの下落という代償を支払わなければならなかった。それゆえ、非物質文化遺産保護という学術運動が幕を閉じると、中国民俗学は新しい苦境に陥る可能性が窺えよう。

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第6回研究会 《討論》福田アジオを乗り越える ―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?―

サンプル日時:2010年7月31日(土)13:30~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
表題:《討論》福田アジオを乗り越える ―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?―
登壇者:
 福田アジオ(神奈川大学)

■コーディネーター・司会:菅豊(東京大学)、塚原伸治(筑波大学)
■共催:女性民俗学研究会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」

趣旨

 現代民俗学とは、「20世紀民俗学―これまでの民俗学」に、これまでなかった新しい学知を付加し、さらに、「20世紀民俗学」を乗り越え、新しい民俗学へと変革を目指す学問の流れです。ここでいう「20世紀民俗学」とは、20世紀に柳田国男たちによって始められた日本の土着文化の理解とその復興運動、そして、その学問化を進めた運動を指します。
 それは、ある時代の要請によって生成した「時代の産物」であり、当初は「野の学問」として出発し、100年近い時間の経過とともに体系化され、組織化され、そして制度化されました。この「20世紀民俗学」の成立の最終段階で、大きな役割を果たした民俗学者の一人に福田アジオ氏がいます。
 福田氏は、柳田の民俗学を批判的に継承した民俗学者です。たとえば、柳田の手法へのアンチテーゼといえる地域民俗論を牽引し、歴史民俗論を精緻化し、さらに民俗学的村落社会論に大きな足跡を残してきました。また、概説書、ハンドブック、理論書、辞典、講座など、多数の学問の基礎テキストの代表的編著者として、民俗学の体系化に尽力してきました。
 そこでは、民俗学の目的・方法・対象、研究史など重要な要目を定義・解説・批判することによって大きな役割を果たしたと評価できます。そして、日本的パブリック・フォークロアの活動のひとつである20世紀末の自治体編さんという社会実践にも数多く携わり、民俗学の社会的認知を高めました。その他、20年以上にわたる中国調査プロジェクトを主導し、両国の国際交流に努めるなど、その活動は多岐にわたり、それが「20世紀民俗学」に与えた影響は計り知れないものがあります。福田氏は、「20世紀民俗学」の申し子といっても過言ではありません。
 いま私たちは現代民俗学を唱え、「20世紀民俗学」からの飛躍を試みようとしています。それは、福田氏、および同時代の人びとの学問を乗り越えることでもあります。しかし、私たちは、これまで彼ら彼女らの仕事を意識的に十分に乗り越えようという意欲を持ってきたでしょうか。また、それを乗り越える困難な作業に取り組む努力を、いま行っているでしょうか。
 現代民俗学会が設立されてすでに2年になりますが、いまだ現代民俗学の輪郭は曖昧模糊としたままです。その原因のひとつに、その「乗り越える」という目的意識と覚悟が、いまだ現代民俗学を考える人びとの間に共有されていないことが挙げられます。そこで、今回、乗り越える対象としての「20世紀民俗学」とは何だったのか? その可能性と問題点とは何か? それはこれから継承可能なのか?そして、それとの決別は可能なのか? といった問題を検討する事を目的として、「20世紀民俗学」の代表的論客である福田氏とオーディエンスとが討論する研究会を企画いたしました。
 今回、副題に「私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?」と題しました。そこには「現代」という名辞によって形容される民俗学を創り上げようとしている人びとを、再び覚醒させる意図が込められています。しかしながら、その乗り越え、あるいはそこからの飛躍は、学会を作れば完遂できるほど簡単ではありません。そのような行為は、これまで自らが意識せずに依って立ってきた、寄りかかってきた「20世紀民俗学」の根本―目的、方法、対象―を更改しなければならない作業であり、ことによってはそれを捨て去らなければならないほどの困難な作業であるということです。そして、「20世紀民俗学」を捨て去ったときに、新しい民俗学が再生されるとは限りません。
 今回の企画は、「『20世紀民俗学』を意識的に継承する」という方向性と、「『20世紀民俗学』を捨てて新しい民俗学を構築する」という方向性との相克や軋轢を顕在化させることにより、今後の民俗学の議論のステージを転換することを目的としています。

◆福田アジオ氏への質問募集中!◆ ※募集はすでに終了しております

 本企画は講演会ではなく、福田アジオ氏と参加者、そして、参加者相互の討論を通じて、いままだ共有されていない困難さや問題点を洗い出し、自覚し、それを超克する作業の起点を創り上げるものです。そのため、事前に参加希望者から福田氏への質問や意見を募集します。
 事前の質問や意見のご応募は、当日参加なさる方に限らせていただきます。質問や意見を400字以内にまとめて、次のアドレスあてに7月7日(水)までにお送りください(名前・所属は必ずご記載ください(※企画終了のためアドレスはすでに閉鎖しております))。
 ご応募いただいた質問や意見は、コーディネーターの方で整理し、応募者の名前を付記して現代民俗学会ホームページに掲載いたします。当日は、主として事前に公開された論点を中心に議論を進めます。なお質問・意見のとりまとめ、取捨選択、修正、当日の質問、議論の進行等についてはコーディネーターに一任させていただきます。


第6回研究会「《討論》福田アジオを乗り越える」、寄せられた質問はこちら


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第5回研究会 「都市」の収穫を問い直す ―80年代を〈学史にする〉ために―

サンプル 日時:2010年3月20日(土)13:30~17:00
場所:お茶の水女子大学大学本館 2階209室
表題:「都市」の収穫を問い直す ―80年代を〈学史にする〉ために―
発表者:
 飯倉義之(国際日本文化研究センター)「都市民俗学の〈揺れ〉 ―方法としての都市、実体としての都市」
 土居浩(ものつくり大学)「都市と〈私〉と学際と ―または「俺が民俗学だ」とカタる芸」

■コーディネーター:飯倉義之・渡部圭一(早稲田大学)


趣旨

 日本の民俗学における1980年代とは、それまで中心的な概念と思われていたものがつぎつぎと動揺をきたした時代である。民俗学を“変える”ための大胆な議論が闘われた時代であり、民俗学の革新とはいかにあるべきか、という大上段の問いが運動となって渦巻いた最後の時代である。実際、「場」「現在」「個人」「身体」など、いまの私たちの考え方をかたちづくる基本的な発想の多くはこの時代に提起され、あるいは胚胎したものである。80年代は、現在の民俗学者のありかたを大きく左右する一大転機であったようにみえる。
 だが、それから30年が経とうとしている現在でもなお、80年代のできごとは十分に正視されているとはいえない。ここには、従来の日本民俗「学史」が重出立証法から個別分析法へといった、1970年代を下限とした「学説史」として描かれてきたという事情も関わっている。
 80年代という時代にいったい何が起き、何が変わったのか、その実質的な理解はいまだ途上の段階にある。いわば、80年代はまだ学史になっていないのである。しかし、民俗学の変革をめざす上で、そのもっとも先鋭的かつ最新の収穫を定位することは、いま私たちがなにを足場にしてどちらへ踏み出せばいいのかを教える貴重な道標となるはずである。
 これまで80年代のできごとがうやむやにされてきたことは、当時、理論面の最前線に躍り出ていた「都市」論のその後の行方に、もっとも象徴的に表れている。近年における一般的な評価は“一過性のブームとして消費されてしまった都市民俗学”といったものであろう。しかしここには都市論の提起した本当の可能性から目をそむけ、表面的な陳腐化だけを取りあげてすませる態度が見え隠れしている。
 代わっていま必要なのは、都市に託された当時の思考の転換をあとづけ、先鋭化した議論の真意を受け止め直すこと、そしてそこから80年代の運動のもたらした収穫と挫折を正視してゆくことである。たとえば、当時の閉塞感とはどのような質のものであり、新しい概念に期待されたものは何だったか。そこで狙われた「革新」の射程はどんなもので、そこで何が打破されたか、あるいはされなかったか。
 都市を糸口に広がるこれらの問題はいずれも容易なものではない。しかし、イデオロギーの暴露にも似たかたちで民俗学の思考様式そのものを揺さぶろうとした80年代という時代を総括し、正しく位置づけようとする学史の叙述は、それと同じくらい民俗学的思考のラディカルな刷新が希求されている現在においてこそ必要であり、また可能になっているはずである。2010年代の民俗学の始まりにあたり、いまとこれからの私たち自身を見定める手がかりを求めて、未来志向の学史を構想する所以である。(渡部圭一)


飯倉義之(国際日本文化研究センター)
 「都市民俗学の〈揺れ〉 ―方法としての都市、実体としての都市」

【要旨】
 1980年代の民俗学は、高度経済成長期を通過した1970年代後半より顕著となった「民俗の消滅」の危機感を受け止めつつ、新たな方向を模索していた。そうしたときに注目を浴びたのが「都市」というフィールドであった。
 しかしそうした期待を背負った都市民俗論は、バブル景気の崩壊のころ、急速に熱気を失っていく。それは都市民俗学というジャンルの確立とうらはらの出来事でもあった。都市民俗学の熱気は、都市をめぐる議論の〈揺れ〉から生じたものであった。その〈揺れ〉とは、都市を学問の方法として捉えるか、対象として捉えるかという〈揺れ〉であったはずだ。
 本発表では、1980年代の都市民俗学の形成を学史として素描し、都市民俗学がもたらした、いま・ここのわれわれが参照すべき可能性についてまとめたい。

土居浩氏(ものつくり大学)
 「都市と〈私〉と学際と :または「俺が民俗学だ」とカタる芸」

【要旨】
 かつて都市に注目した民俗学に魅力があったとすれば、そのひとつは間違いなく学際性を志向した点にある。そのことは明石書店から刊行された『都市民俗生活誌』全3巻や、岩田書院から刊行され始めた『都市民俗基本論文集』全4巻&別冊2(予定)に収録された諸論考からも明らかだ。
 しかしながらより根幹の魅力は、都市を語る論者たちからほとばしる〈私〉の佇まいにあった、というべきだろう。換言すれば「俺が(俺こそが)民俗学だ」との気概を示す芸の上演(=言説実践)こそが、80年代「都市民俗学」界隈における熱気の正体であったと考える。
 本発表では「俺が民俗学だ」を(80年代限定の)刹那な叫びとしないために、どのような芸の継承が可能かについて、学際的観点を踏まえて考察したい。

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第4回研究会 ドロシー・ノイズ氏講演会 “Necessity and Freedom in the Tradition Process”

日時:2010年1月23日(土) 13:00~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
講演タイトル:“Necessity and Freedom in the Tradition Process”
講演者:ドロシー・ノイズ(Dorothy Noyes)オハイオ州立大学准教授、同大学民俗学研究センター(Center for Folklore Studies)センター長)

■共催:現代民俗学会、日本民俗学会、東京大学東洋文化研究所
■使用言語:日本語、英語(ドロシー・ノイズ氏のご講演、質疑応答には通訳がつきます)

趣旨

 日本の民俗学が取り扱う「民俗」という言葉には、連綿と継承される「伝統性―実在的、かつ構築的な過去からの歴史的性格―」という含意が、未だ拭いがたく埋め込まれています。また、私たち日本で民俗学を研究するものが、そのような「民俗」観に若干なりとも拘束されていることも事実です。しかし、一方で、現代社会における「民俗」を考えた場合、継続された「伝統性」が、その意味内容を変化させてきたことにも、すでに私たちは気がついています。
 かつて民俗学の初発の時代に、私たちが「民俗」として画定し、対象化した文化は、その時代の社会的、政治的、経済的な状況に強く束縛されるものでした。その頃の時代と大きく変化し、束縛から解放されたように思われる現代という時代においても、さらに、過去とは異質の新しい束縛が再生し、「民俗」を縛っています。
すなわち、「民俗」は現代まで連綿と継承されてきたと見えても、その意味内容や人びとに作用する力は大きく変容しているわけです。このように「民俗」をとらえると、それを取り巻く「伝統性」と「現代性」を単純に腑分けする二項対立が、かなり怪しげな単純思考であることが理解できます。
 本講演では、アメリカ民俗学の気鋭の研究者であるドロシー・ノイズさんに、"Living Folklore(生きている民俗)"という考え方を深めるため、17世紀にヨーロッパで起こった「伝統性」/「現代性」という対置思考を拒絶し、"Living Folklore"というコンセプトを構築してきた20世紀のアメリカ民俗学者の方法を、まずレビューしていただきます。そして、「必要(necessity)」と「自由(freedom)」というキー・ワードをもとに、「民俗」の生成や継承に関わる重要な社会状況や、そのなかで意味内容をシフトさせた「民俗」について解説いただき、その両者のダイナミズムに注意を払うことによって、現在進行している世界状況のなかで、私たちが「民俗学」を新しく今日性を帯びた研究分野として再生できることについて、アメリカ民俗学者の立場から提言していただきます。


※本企画は当初、2009年5月の年次大会に合わせて開催を予定しておりましたが、新型インフルエンザの影響による渡航制限が懸念されたことにより、上記の日程にて再企画されたものです。

当日、ノイズ氏が報告された原稿(英文・pdf)を公開しております。アメリカ民俗学の最先端より提起された大変興味深い内容ですので、ぜひご一読ください。講演タイトル:“Necessity and Freedom in the Tradition Process”


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第3回研究会 「社会」再考 ―村落研究から展望する新しい社会像―

日時:2009年11月14日(土)13:30~16:40
場所:お茶の水女子大学 大学本館2階209室
表題:「社会」再考 ―村落研究から展望する新しい社会像―
発表者:
 岡山卓矢(東北学院大学文学研究科博士前期課程)「契約講の地縁社会化」
 武井基晃(筑波大学人文社会科学研究科 助教)「歴史の共有と「わたしたち」の範囲」
コメンテーター:
 石垣悟(文化庁伝統文化課)・小西公大(日本学術振興会特別研究員(PD)/東京大学東洋文化研究所)

■コーディネーター:渡部圭一(早稲田大学人間科学学術院 助手)・門田岳久(東京大学総合文化研究科博士課程)

趣旨

 社会とは、民俗学にとってどこか茫漠としたテーマである。たとえば民俗誌の最初の方に配される章は“社会”であり、村落社会・社会伝承・社会組織といった類語もなじみの深いものである。一方で現代社会と民俗といった大枠の言い方も可能で、民俗の変化をめぐっては“社会・経済的条件”など、外在化された社会が想定されることもある。民俗学は社会についてつねに二枚舌を使ってきたというべきかもしれない。漠然とした社会という言葉に、術語としての明確なメッセージをこめていくためにはどうすればいいだろうか。
 これまでこうした問題が放置されてきたわけではない。むしろ戦後民俗学史の方向は、村落社会の肥大化、あるいは社会と村落を同一視することの閉塞感に対する批評をひとつの基調としてきた。いわゆる伝承母体論の盛衰はそのひとつであり、対抗軸として明瞭に“個人”への注目が打ち出された時期もあった。しかしそれらは伝承母体論批判という当座の意図を越えた方向性をもたず、個と全体との対立を強調するあまりに個の営みから「社会的なもの」の生成へと視点を回帰させる道を確保することができなかった。一方では批判対象だった村落研究自体もなしくずし的に後退してしまい、結果としてみると当時の議論は霧散した感が漂う。
 ところで現代人類学の一つの志向として、個人の対立項としての社会を前もって措定することなくいかに人々の日常を記述するかという問題意識がある。人と人、人やモノとの配置や相互行為から立ち上がってくる集合性をあえて社会といわずネットワークと呼ぶのも、個人に外在する全体的(ホリスティック)な社会の概念を無批判に用いてきた、旧来の社会構造分析から脱する試みであろう。個人が社会を造り社会が個人を規定するという弁証法的関係をテーゼとするシンボリック相互作用論や、国家と個人の中間であるアソシエーションに社会的なもの(the social)を見出していく立場においても、個としての人間の実践の中に、リジッドな共同体ではないある種の共同性の生成を見ようとする視点が共有されている。
 かたや地域のフィールドワークもけっして立ち止まってきたわけではない。村落という社会を静的な分析単位とみなさず、実践や経験のレベルで社会的な営みを注視するなど、柔軟な問題意識を育てつつある。自明視されてきた社会という存在を相対化し、いかにアクチュアルに分析しなおせるか、フィールドワークの試金石はまさしくそこにある。「社会」再考と題したこの企画で、あえて村落という局面から民俗学的社会概念の自覚化と相対化をはかりたいと考える所以である。
 ここで“村落から”の取り組みを標榜するのにも理由がある。かつての伝承母体論批判は、都市・口承・芸能など、村落研究以外の領域で達成されてきたことを想起したい。一面、それが研究状況に対話の困難を生み出し、社会像の再検討という実質的な展開に繋がらなかったことも否定しがたい事実である。村落と社会をめぐる問題は、本当の意味ではまだ乗り越えられていないのではないだろうか。逆にその洞察にたつかぎり、社会概念をめぐる議論は多面的な展開が期待できるフィールドであり、民俗学とその他「社会」科学との横断的な回路をひらくフィールドともなるだろう。そのもっとも先鋭的な批評の可能性を、村落研究自身の新しい展開に期待する。(渡部圭一・門田岳久)


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第2回研究会(京都民俗学会との共催企画) 新たな民俗学の行方 ―歴史と現代からの照射―

日時:2008年12月7日(日)13:00~17:40
場所:佛教大学6号館101号室
表題:新たな民俗学の行方 ―歴史と現代からの照射―
発表者:
 川村清志(札幌大学)「民俗文化研究への視角 ―“民俗”と“歴史”の再/脱構築にむけて」
 村上忠喜(京都市文化財保護課)「神性を帯びる山鉾 ―祇園祭山鉾の近世・近代・現代」
 山泰幸(関西学院大学)「〈現在〉の〈奥行き〉へのまなざし ―社会学との協業の経験から」>
 谷口陽子(お茶の水女子大学)「現代の家族・親族関係の研究における民俗学の可能性」
 徳丸亞木(筑波大学)「伝承の動態的把握についての試論」

川村清志(札幌大学)
 「民俗文化研究への視角 ―“民俗”と“歴史”の再/脱構築にむけて」

【要旨】
 日本民俗学は、歴史科学と現代科学をつなぎあわせて構築された極めて不安定なものである。しかも、日本民俗学会が、その理論的接合を試みたのは過去のことで、組織さえ維持できればよしとして学会内に引きこもり、我々に「民俗」の可能性を提示することはなかったのである。民俗学(フォークロア)の父、柳田國男が日本の常民、つまりコモンピープル独自の文化を主張したとき、歴史学に代表されるアカデミズムは、民俗学を黙殺した。そして、柳田の弟子達が、その名を利用して研究所を創設し、民俗学会を組織しながら、アカデミズムとの迎合を果たしたのである。その結果は、諸君らが知るとおり、民俗学の敗北に終わった。それはいい。しかし、アカデミズムと迎合した民俗学は変質し、民俗学は歴史学の下位分野に位置づけられた。それが、日本民俗学衰退の歴史である。ここにいたって私は、民俗学が今後、絶対に理論的な齟齬をきたさないようにすべきだと確信したのである。それが、民俗を文化研究のもとに再/脱理論化する真の目的である。これによって、民俗学の論争の源である「歴史」についての不毛な議論を粛清する。

村上忠喜(京都市文化財保護課)
 「神性を帯びる山鉾 ―祇園祭山鉾の近世・近代・現代―」

【要旨】
 現在、32基ある祇園祭の山鉾のうち、約3分の2にあたる21の山鉾において、なんらかのご利益を標榜する授与品が配布される。祇園祭の山鉾は、本来は神賑の風流であり、山鉾の上に飾られる趣向自体はご利益の対象となるような神性を帯びたものではなかったはずである。本報告では、いかに山鉾に神性が付与されていったかを跡付けた上で、神格化を目指した伝承の論理を考察する。そしてそれに規定されていく後代の伝承をトレースしつつ、伝承の歴史的展開から、伝承そのものについて考察したい。

山泰幸(関西学院大学)
 「〈現在〉の〈奥行き〉へのまなざし ―社会学との協業の経験から―」

【要旨】
 私はここ十年ほど、所属する職場などの関係で、多くの社会学者と共同研究をしたり、社会学教育などに携わってきた。いまでは、社会学関係の雑誌や書籍などに書いたものの方が多くなっている。もちろん、大学院で民俗学を学び、自分自身も民俗学者だと思っているが、じつは私がそのように自覚するようになったのは、上記のような社会学との出会いを通じてであった。私は、社会学との関係性の中で、民俗学の魅力がはっきりと見えてきたのである。これはおそらく、歴史学など他の学問との関係性の中で、民俗学に魅力を感じている方々にも共通するのではないだろうか。では、私は、社会学とどこに接点があり、どのような違いが出せると考えてきたのか。そのあたりのことを、私のごく限られた経験から、お話してみたい。

谷口陽子(お茶の水女子大学)
 「現代の家族・親族関係の研究における民俗学の可能性」

【要旨】
 社会の急速な少子高齢化のなかで、家族・親族関係のあり様はこれまでにも増して大きな変化を余儀なくされている。今日、民俗学の用語や概念は、現実に生じている事象や変化を理解・解釈するうえで、必ずしも万能ではないことが指摘されている。他方、現実を顧みるに、それなくしては理解や説明が困難な事象が数多く存在することもまた事実である。本報告では、現代の家族・親族関係のあり様を一つの軸として、民俗学の用語や概念が置かれているアンビバレントな状況を再考し、現代社会研究における民俗学の可能性について論じることを目的とする。

徳丸亞木 (筑波大学)
 「伝承の動態的把握についての試論」

【要旨】
 民俗学がその研究対象としてきた伝承は、現代に生きる人々の内面で保持され、生活の様々な側面で、言葉や行為として相互に伝えられ、さらには次世代へと継承されて行くものと考えられる。ある場合には、伝承は、固定化した静態的なものとしてではなく、それを保持し、伝えて行く人々の生活や心のありかたとも結び付き、動態的なものとして存在する。今回の研究報告では、現在社会において、伝承をささえる人々に目を向け、伝承を動態的なものとして把握する。さらに、人々が、伝承をいかに内面化し、主観化するかを、その背景としての歴史的環境や、彼の生活体験の内省的な叙述との関わりから分析を加え、報告を行いたい。

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第1回研究会 民俗学の危機 ―現代民俗学が問うべきこと

日時:2008年9月20日(土) 13:00~17:00
場所:お茶の水女子大学 大学本館2階209室
表題:「社会」再考 ―村落研究から展望する新しい社会像―
発表者:
 岩本通弥(東京大学)「民俗学は「民俗」学ではない」
 菅豊(東京大学)「民俗学の陳腐化―使えない民俗学用語と概念」

岩本通弥(東京大学)
 問題提起 「民俗学は「民俗」学ではない」

 民俗学が大きく転換する必要性とその見取り図について問題提起がなされた。すでに大転換を果たしたドイツ民俗学を参照に、人びとの「日常」に注目すること、「民俗」という連続性(伝統性)の内包された概念を放棄することなど、新たな視点の可能性について提示された。特に「日常」については、今後の民俗学において中核的な分析枠組みとなろうが、それらの視角は日本の既存の研究にも内在しており、これまでの研究蓄積に接合可能であるとし、「日常」への注目とは「今ここにある当たり前」を、プロセスとして問うことに他ならないと説明した。

菅豊(東京大学)
 問題提起 「民俗学の陳腐化―使えない民俗学用語と概念」

  民俗学は、その学問が生み育て、そして大事にしてきた用語や概念を陳腐化させている。たとえば、仏語の 「トラヂシオン(tradition)」の翻訳である「伝承」という言葉も、それが文化の政治性を排除する概念として柳田によって設定されたがゆえに、現在では使いづらいものとなっている。その他、「民俗」、「常民」などという言葉も、すでに耐用年数が過ぎ、無条件には使えない言葉となっている。このような学問の硬直化、陳腐化に対応する方法論的検討がなされるべきであり、それは、自国、自分野の自己目的化したレビューではなく、外に開かれた学際的、国際的検討がなされるべきであることが述べられた。

企画趣意

 日本の民俗学は、危機的状況にあります。民俗学の落日が喧伝されて、すでに十年以上がたちました。おおかたの民俗学研究者は、この学問に従来の勢いがないことぐらいは気がついているはずです。しかし、民俗学が落日してからのこの十数年間で、民俗学研究者、そしてそれをサポートするはずの学会組織は、新しい道筋を見つけられずに、また新しい試みに十分に挑戦せずに停滞を続けました。そのような状況に何ら疑問も抱かず、その停滞に対して危機感すら感じず、あるいは、気がついていても見て見ぬふりをしてきたのが、これまでの日本の民俗学の十年間ともいえます。
 民俗学は、根本的な大きな問題を抱え続けています。学問の目的、学問の方法論―概念、用語、分析手法―、学問の対象などすべてにおいて、再検討を要する状況にあります。日本民俗学の創始者・柳田国男の業績は、未だ「生きた」セオリーのごとく利用され、研究の世界に流通しています。その業績が、日本民俗学に果たした役割は大きいとはいえ、四十五年も前にこの世を去った過去の研究者を相対化できず、それに依存するのは、他の学問には見られない異常で奇妙なことなのです。
 また、民俗学は、実社会における位置づけにおいて困難な状況にあります。民俗学への社会的要請、民俗学に対する社会的期待は、それほど高くはありません。むしろ、近年、社会的にその認知度は、さらに低下しつつあります。また、アカデミックな世界における存在感も、かなり低いものになっています。科学研究費の申請の分科からはずされた状況、学術会議でのプレゼンスの低さ、全国の大学における教員ポスト数の減少等々、制度的アカデメイアにおいて、民俗学はかなり危機的な状況にあります。
 このような日本民俗学界内部、また他学問も含んだアカデメイア、そして一般社会における日本の民俗学の危機的な現状をしっかり認識しなければ、現代民俗学会と銘打つ新しい組織を作ったところで、その実体は旧態依然とした研究組織となり、設立する意義は全くないと考えます。したがって、まずは、民俗学の危機的状況を本学会に参画する人びとで議論し、危機感を共有すべきだと思います。
 今回の研究会は、以上のような現状認識に鑑み、民俗学の危機的状況を再認識し、その現状から目をそらすことなく、正面から受け止めるための基本的ディスカッションを行うことを目的として開催されます。まず、二名の論者から、民俗学の危機的状況に関する問題提起を行います。それを起点に、現代社会との民俗学との不適合性や民俗学の未来に向けての困難さ、また逆に現代社会における民俗学の存在意義や可能性といった「現代民俗学が問うべきこと」を、研究会の参加者全員で討論し―基本的に参加者全員が発言できる場をもうけたいと思います―、それによって、未だ輪郭の定まらぬ「現代民俗学」を、色づけてみたいと思います。(文責:菅豊)

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