現代民俗学会The Society of Living Folkloreは民俗学に関心をもつ多様な人々で構成され、定期的な研究会の開催と『現代民俗学研究』誌の刊行を主な事業として民俗学の尖鋭化・実質化・国際化に取り組んでいます

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第72回研究会「1950〜1960年代の民俗芸能を再考する」


日時:2024年2月3日(土)14:00~17:00
開催方法:開催方法:Zoomによるオンライン開催。非会員については参加には事前登録が必要となります。

趣旨説明:
 伊藤純(川村学園女子大学)

発表者:
 黛友明(香川県立ミュージアム)
  「隠れた文脈から考える民俗芸能―伝統芸術の会の周辺から―」
 伊藤純
  「研究から実演へ―宝塚歌劇団とわらび座とその評価をめぐって―」

コメンテーター:
 高田雅士(駒澤大学)
 松岡薫(天理大学)
 福田裕美(東京音楽大学)

コーディネーター:
 伊藤純・松岡薫

参加方法:
  • ■現代民俗学会会員の方には、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします。
  • ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

  • 【参加登録について】
  • ■非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、研究会にご参加を希望される方は、こちらのフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
  • ■登録後 、ZoomミーティングのID・パスコードを含む参加情報メールをお送りいたします。メールをなくさないようにご注意ください。
  • ■参加情報メールに書かれている注意事項をよくご確認のうえでご参加ください。
  • ■参加情報のメールを紛失された方は、改めて参加登録をお願いいたします。
  • ■本会の会員メーリングリストにご登録をいただいている方は、研究会前日までに会員向けメーリングリストを通じてミーティングURLとパスコードを含む参加情報をご案内いたしますので、参加登録をいただく必要はございません。


  • 趣旨:

     民俗芸能は民俗学・文化人類学・歴史学・音楽学・演劇学・社会学など様々な分野からのアプローチがなされてきた研究対象である。また、アカデミズムの対象としてだけでなく、文化財保護・観光資源化・実演家による舞台化など様々取り組みや実践とも交叉しながら展開してきた分野でもある。
     本研究会では一見すると別々に展開したように見える数々の研究と実践とを、それらの思想的源流を辿りながら整理していく。とくに、戦後の研究と実践の黎明期であり、それらの方向性を示したと考えられる1950〜1960年代の研究・実践団体の活動に注目する。具体的には民俗学者・歴史学者・演劇学者・実演家らの多くが参加した伝統芸術の会、戦後の民俗芸能研究の中心的人物が多く参加した民俗芸能の会、独自の民俗芸能の舞台化を行ったわらび座・宝塚歌劇団について取り上げる。当時の各団体の機関紙では民俗/民族、芸能/芸術、伝統、国民文化といった概念が検討されていた。これら鍵概念を当時の文脈から問い直し、現代にどのように継承・断絶されたかを検討する機会としたい。またコメント・ディスカッションを通して単なる民俗芸能研究や文化運動研究に限定することなく、歴史的・文化的な広がりと交叉のなかで議論していく。

    発表要旨:

    黛友明
    「隠れた文脈から考える民俗芸能―伝統芸術の会の周辺から―」
     伝統芸術の会は、1947年頃から尾上九朗右衛門、南博、藤波光夫を中心に開かれていた会合を発端とし、1950年にこの名称となって本格的に活動を開始した。1950年代は日本共産党の影響下で国民的歴史学運動や文化運動が展開されていたが、この会もその潮流のなかにあった。「民族(民衆)文化」としての伝統芸能の再創造を企図し、能・狂言・歌舞伎・日本舞踊といった伝統芸能の実演家やそれに関心を持つ多方面の研究者が集い議論する場となっていったのである。研究者のなかには、郡司正勝、廣末保、三隅治雄といった民俗学の成果を積極的に芸能研究に取り入れていった人たちも含まれていた。
     今回の報告では、会誌『伝統芸術』をもとに1950〜60年代の伝統芸術の会の活動を概観したのち、この会が編集した『伝統芸術講座』(1954〜56)、『伝統と現代』(1968〜71)という二つのシリーズ本のうち、『民俗芸能』の巻を中心に検討する。実質的な代表者でもあった南博は、設立当初は「左からの民族論」があったが、1955年以降はそのようなイデオロギーから自由になったものの、運営としては「鑑賞者中心主義」を取らざるを得なくなったと振り返っている(『伝統芸術』第88号)。同時代の思想的な状況も視野に入れながら、伝統芸術の会を通じて、「民俗芸能」の研究をめぐる隠れた文脈を掘り起こしていきたい。

    伊藤純
    「研究から実演へ―宝塚歌劇団とわらび座とその評価をめぐって―」
     1952年(昭和27)年、本田安次を中心として西角井正慶・宮尾しげを・池田彌三郎・郡司正勝・三隅治雄などが参加し民俗芸能の会が発足する。民俗芸能の会からは『藝能復興』(1962年、20号から『民俗芸能』と改題)が発行され、これは『民俗藝術』(1927年〜1932年)の事実上の後継誌で、戦後民俗芸能研究の中心となった。民俗芸能の会は、芸能史研究ばかりでなく、「新日本藝能の樹立」が会則として掲げられ、『民俗芸能』でも民俗芸能大会やアジア民族芸能大会、日本民俗舞踊協会・国際芸術家センターといった民俗芸能を舞台化させた公演を積極的に誌面に取り上げている。特に国際芸術家センター(1962年〜)は実演家だけでなく、民俗芸能研究者・演劇学者・音楽学者らが参加する大事業で、『民俗芸能』ではこうした舞台化と無形文化財保護の文脈のもとで、国立民俗舞踊団の設立も検討された。
     一方で戦前には東宝舞踊隊が、戦後には宝塚歌劇団「日本郷土芸能研究会」(1958年〜)が民俗芸能を取材し舞台化を行っている。宝塚では国民文化の樹立を目指して「日本民俗舞踊シリーズ」(1958年〜1969年)・「日本民族舞踊シリーズ(1969年〜1978年)の制作が行われた。また、1950年代後半から1960年代にかけては日本共産党の文化工作隊としてのわらび座が積極的に民俗芸能を舞台化させた。この実践はのちの民族舞踊教育運動(民舞教育)に引き継がれていく。実演家らの実践形態や理念はさまざまであり、そこには径庭もあるが、民俗芸能という対象は当時の彼らにとって既存の価値観にはない魅力的で可能性に満ちた対象であり、また敗戦後の占領期に問題化された封建遺制と伝統の問題を克服するための実践の題材でもあった。

    第71回研究会「海外フィールドから見た日本―逆さ読みの日本文化論の試み―]


    日時:2023年12月23日(土)13:00~17:00
    開催方法:対面・オンラインの併用
    会場:京都大学稲盛財団記念館3階大会議室 + オンラインのハイフレックス

    司会:
     飯田卓(国立民族学博物館)
    趣旨説明:
     清水展(関西大学総合政策学部)

    発表者:
     川瀬由高(江戸川大学社会学部)
      「コミュニタスの場―浅原神社秋季例大祭の「奉納煙火」に関する予備的報告―」
     中村昇平(東洋大学)
      「池は誰のものか─共有地の使用権をめぐる当事者意識の重層性―」
     片岡樹
      「タイの廟から日本の神社を考える」

    コメンテーター:
     平井京之介(国立民族学博物館)
     梅屋潔(神戸大学)
    コーディネーター:
     片岡樹(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

    趣旨:

     本研究会の目的は、国外フィールドでの民族誌的経験を通して、文化人類学による日本社会/文化理解の新たな視角を提案することである。我が国における文化人類学は、戦後しばらくまでの時期を除けば、主に国外フィールドにもとづく異文化理解の学として発展してきた。異文化理解とは異文化を自文化と参照する営為であるため、それは必然的に一種の自文化論となる。ただしこの自文化論はほとんどの場合、研究者自身にとってもじゅうぶんに意識化されることはなく、あくまで民族誌の行間に暗黙裏に埋め込まれている。この行間を主題化することで、海外フィールドを経由させた日本文化を描けないだろうか。中国および東南アジアでの調査研究に従事してきた人類学者が国内フィールドに向き合ったときに何が見えたのか。それをここでは考えたい。

    共催:
     国立民族学博物館共同研究会「海外フィールド経験のフィードバックによる新たな人類学的日本文化研究の試み」(代表:片岡樹)、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科

  • ■参加費無料。京都大学の会場で対面参加される場合、事前登録は不要です。
  • 会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
  • 第70回研究会「公式な秩序/ヴァナキュラーな秩序―政治経済の民俗学的転回に向けて―

    ご案内:

    ■本研究会は、会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。ただし事前参加登録をお願いします。
    ■本研究会は、対面参加の場合、現代民俗学会会員の方も参加登録をしていただく必要があります。

    日時:2023年12月9日(土)13:00~
    開催方法:対面・オンラインの併用
    会場:東京大学東洋文化研究所 大会議室

    発表者:
     河野正治・塚原伸治
      「趣旨説明」
     河野正治
      「硬直した政治権威と生まれゆくヴァナキュラーなもの―ミクロネシア人類学から考える「伝統政治」と民衆の想像力/創造力―」
     塚原伸治
      「美的コミュニケーションとしての経済と市場の相剋 ―民俗学から考える「伝統経済」と民衆の美学―」

    コメンテーター:
     加藤幸治(武蔵野美術大学教養文化・学芸員課程)

    コーディネーター:
     河野正治(東京都立大学人文科学研究科)
     塚原伸治(東京大学大学院総合文化研究科)
     菅豊(東京大学東洋文化研究所)

    趣旨:

     近年の民俗学では、ヴァナキュラーという概念を用いた事例研究が蓄積されてきた。なかには、ヴァナキュラーを民俗学の中心概念に据え、学自体の在り方を刷新しようとする動きもみられる。こうしたヴァナキュラー文化研究が、従来の民俗学では研究対象とみなされてこなかった人々の創造的な営みをその視界に収め、民俗学の研究対象を拡張したことは確かであろう。ただし、ヴァナキュラーという語の成り立ちが古代ローマの奴隷制と密接に関連していることや、政治学や文化人類学においてヴァナキュラーという概念がマイノリティの政治や周縁的な人々の経済実践を論じるために使用されてきたことを踏まえるなら、政治と経済の領域はヴァナキュラー文化研究の射程に当然含まれるべきである。本研究会ではそのような問題意識から、民俗学者と文化人類学者それぞれによる研究発表を通じて、ヴァナキュラー文化研究がいかに政治と経済を扱うことができるのかを議論する。現代民俗学とアナキスト人類学の接点について考えることも狙いの1つである(文責:河野正治・塚原伸治)。

    発表要旨:

    河野正治
    「硬直した政治権威と生まれゆくヴァナキュラーなもの―ミクロネシア人類学か ら考える「伝統政治」と民衆の想像力/創造力―」
      本発表は「公式な秩序/ヴァナキュラーな秩序」という本研究会の趣旨に即して、二つの秩序を視野に入れながら政治現象について語る新たな民俗学的アプローチの可能性を、具体的な事例研究とともに提示する試みである。政治という用語が指し示す対象は多岐にわたるが、ここでは民俗学がかつて議論を重ねてきた「伝統政治」の領域、なかでも民俗学的王権論に注目する。本発表ではこの主題を論じなおすための事例研究として、王制ないし首長制に分類されてきたミクロネシア連邦ポーンペイ島(旧ポナペ島)の「伝統政治」をめぐる攻防を取り上げ、二つの秩序の相克・変貌・創造のダイナミズムに満ちたものとして「伝統政治」を描きなおす。それにより、ヴァナキュラー文化研究の立場から「伝統政治」について語る具体的なやり方を示すとともに、このような手法が従来の民俗学的王権論との関係でいかに位置づけられるのかを考えたい。民衆の想像力/創造力を積極的に評価するアナキスト人類学のアプローチが、政治現象をめぐる民俗学的なアプローチといかに対話可能になるのかを議論することも、本発表の狙いである。

    塚原伸治
    「美的コミュニケーションとしての経済と市場の相剋 ―民俗学から考える「伝統経済」と民衆の美学―」
     本発表では、日本の伝統的地方都市社会における儀礼の中でおこなわれる慣習的な贈与交換と商品の売買を取り上げ、ローカルで伝統的な規範と市場の論理のあいだの相剋について考える。本研究会の趣旨に照らすならば、前者のローカルで伝統的な規範を「ヴァナキュラーな秩序」、後者の市場の論理を「公式な秩序」とみなすことが可能だろう。しかし、人びとは伝統的でローカルな慣習のなかにありながらも市場経済の中で持続的に利益を追求する取引の主体であるため、儀礼の場においても両者は出会うこととなる。本発表ではすでに発表者が検討したことがある千葉県香取市佐原の祭礼における買い物と贈与交換を事例として取り上げ、本研究会の趣旨のもとに検討し直す。この事例において人びとは公式な秩序に圧倒され、慣習に照らして望ましい形による取引は困難となった。しかし、市場の秩序は人びとの価値観までも一色に染め上げてしまうものとはならなかった。本発表では、両者の相剋のなかにあらわれる人びとの美学に着目し、二つの秩序のあいだについて考えたい。

    ■共催:現代民俗学会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、野の文化論研究会(科研「ヴァナキュラー概念を用いた文化研究の視座の構築―民俗学的転回のために―」)

    ■参加登録について
    ※以下の申し込みリンクから参加登録(オフライン[対面参加]かオンライン[ZOOM参加]かを選択)をお願いいたします。
    ■東京大学東洋文化研究所での対面参加の席数は限られております(約50名、先着順)。収容可能数を超えた時点で、対面参加をお断りすることもございますので、その際は登録後送られるzoomのURLからオンラインでのご参加をお願いいたします。"

    《第70回研究会参加登録フォームはこちら》

    第69回研究会「モニュメントなき都市の歴史と記憶―ジョルダン・サンド著『東京ヴァナキュラー』を読む、語る―」

    ご案内:

    ■会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。要参加登録(登録方法は下記【参加登録について】を参照)。
    ■本研究会は、現代民俗学会会員の方も参加登録をしていただく必要があります。

    日時:2023年6月17日(土)13:00~
    会場:国士舘大学世田谷キャンパス10号館10212号室+オンライン(オンライン会議システムZoomを使用)のハイフレックス
       ■国士舘大学世田谷キャンパスへのアクセス
       https://www.kokushikan.ac.jp/access/setagaya/
       ■国士舘大学世田谷キャンパスのキャンパスマップ
       https://www.kokushikan.ac.jp/information/campus/setagaya.html
    発表者:
     平井雄一郎(渋沢研究会)
      「1980年代都市論の形而上学」
     岸佑(国際基督教大学アジア文化研究所)
      「過去の力、再生の論理:戦後空間の可能性」
     ジョルダン・サンド(Jordan Sand, ジョージタウン大学)
      「『東京ヴァナキュラー』―平井報告・岸報告へリプライする」
    司会・コメンテーター:
     菅豊(東京大学東洋文化研究所)
    コーディネーター:
     石野裕子(国士舘大学文学部)、菅豊平井雄一郎

    趣旨:

     これまで歴史的事績や事件、それに関わった人びとを顕彰し記憶するために、歴史遺構や記念碑、記念塔、記念像といった数多くのモニュメントが、世界中で構築されてきた。一方、歴史的事績や事件、そしてそれに関わった人びとを否定し、その歴史を葬り去るために、いま多くのモニュメントが世界中で破壊されている。「モニュメントは破壊されるために作られる」といっても過言ではない。それは人びとのなかにパブリックヒストリーを生み出し、また消し去る重要な装置である。
     数百年の歴史をもつ日本の中核都市・東京―そこは関東大震災や東京大空襲などの大きな災禍によって焦土と化した経験をもつ。そのため、数百年もの歴史を示すモニュメントは、そこにはほとんど存在しない。しかし東京では、ここ50年ほどのあいだに、モニュメンタルなモノではなく、それに代替されるヴァナキュラーなモノによるパブリックヒストリーの創造がとりおこなわれてきた。
     ジョルダン・サンド著『東京ヴァナキュラー―モニュメントなき都市の歴史と記憶』(新曜社)では、新宿西口地下広場、『谷根千』、路上観察学、そして江戸東京博物館といった、一見、何のつながりもないようなヴァナキュラーな物事を軸に、1969年を転換期とする東京のパブリックヒストリーの〈ヴァナキュラーへの転回〉が活写されている。本研究会では、著者サンド氏を交えて同書を合評しながら、〈ローカル〉と〈日常〉の政治が織り成されるモニュメントなき都市の歴史像と記憶に関し、パブリックヒストリー、およびヴァナキュラー文化、都市コモンズといった観点から議論したい(文責・菅豊)。


    ■現代民俗学会、パブリックヒストリー研究会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、野の文化論研究会(科研「ヴァナキュラー概念を用いた文化研究の視座の構築―民俗学的転回のために―」)

    【参加登録について】
  • 参加者数確認のため、以下の申し込みリンクから参加登録(対面参加かオンライン参加かを選択)をお願いいたします。
  • ■国士舘大学世田谷キャンパスでの対面参加の席数は限られております(約100名、先着順)。収容可能数を超えた時点で、対面参加をお断りすることもございますので、その際は登録後送られるzoomのURLからオンラインでのご参加をお願いいたします。

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    第68回研究会「環境民俗学の現代的課題を探る:「ふえる/へる、ふやす/へらす」という視点から考える自然と人間の関係」

    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日時:2023年3月26日(日)13:00~17:00
    会場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    タイムテーブル:
     13:00~13:30 趣旨説明:加藤秀雄(滋賀県立琵琶湖博物館)「趣旨説明:環境民俗学の研究史と本会の趣旨説明」
     13:30~14:30 発表1:福永真弓(東京大学)「あわいに生きるものの民俗誌」
     14:30~15:30 発表2:北川真紀(東京大学)「どのように山を〈みる〉のか―狩猟者の量感と手続きとしての可視化」
     15:30~15:45 休憩
     15:45〜16:00 コメント:渡部圭一(京都先端科学大学)
     16:00~17:00 総合討議
    司会:川田牧人(成城大学)
    コーディネーター:加藤秀雄川田牧人

    趣旨:

     民俗学において自然と人間の関係を扱う領域は生態民俗学、民俗自然誌、環境民俗学などと呼ばれ、1990年代以降、多様なアプローチによる研究の蓄積が進んだ。2001年にその研究動向を整理した菅豊は、これらの研究領域が環境問題に対する関心の高まりなど、「現代社会の外在的変化」に影響を受けて隆盛したと指摘している(菅豊 2001「自然をめぐる民俗研究の三つの潮流」『日本民俗学』227号)。それから20年経った現在、大災害、気候変動、パンデミックといった様々な出来事をとおして私たちは、あらためて自然と人間の関係の「これまで」と「これから」を、問わざるを得ない状況に直面している。
     このような状況を念頭に置き、本研究会では、自然と人間の関係を、現代民俗学はどのように論じればよいかを検討したい。特に今回、力を入れて議論したいのは、ある自然界の存在が「ふえる/へる」現象と、人間が自然界の存在を「ふやす/へらす」ために行う行為を、どのように民俗誌の中で描くかという問題である。千葉徳爾の『はげ山の研究』(1956)が明らかにしたように、自然界の存在は人間の生活と強い関わりを持ちながら増減する。そして、これを「ふやす/へらす」ための行為や知識も民俗学の研究対象とされてきた。それには自然界の存在に対する民俗知、信仰、まじないなども含まれる。
     しかし現代においては、それらにとって代わり、科学による自然の対象化と働きかけが重要性を増している。これまで不可視、不可知であった自然界の存在(例えば微生物、ウィルス、化学物質など)や現象を科学は認識可能にし、それが「ふえる/へる」ことも量的に把握可能なものにした。またそれらを「ふやす/へらす」ための科学的知見と、それにもとづく実践が様々なフィールドで見出される現代社会において、「科学」を抜きにして自然と人間の関係を描いても、その民俗誌は不十分なものとなってしまうだろう。
     以上のような問題意識から本研究会では、従来の自然と人間の関係をめぐる民俗学的研究の流れを整理し、そこにどのような課題があるのか明らかにする。その上で具体的な研究の事例を見ながら、今後の方向性を模索したい。今回、報告を行う二人の研究者は、綿密なフィールドワークに基づき環境社会学、文化人類学の領域で先駆的な取り組みを行っているが、民俗学の側からこれにどのような応答ができるのか、登壇者だけでなく参加者も交えて議論を行いたい。(文責:加藤秀雄)


    【参加登録について】
  • 非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、第68回研究会「環境民俗学の現代的課題を探る:「ふえる/へる、ふやす/へらす」という視点から考える自然と人間の関係」にご参加を希望される方は、下記のフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
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    第67回研究会「生活と探究の民俗学:上池袋・木賃アパートから考える」

    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日時:2023年3月12日(日)13:30~17:00
    会場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    コーディネーター:
     田辺裕子(演劇)
     辻本侑生(民俗学)
     中川亮(言語学)
    タイムテーブル:
     13:30~13:50 趣旨説明:田辺裕子辻本侑生中川亮
     13:50~14:30 発表1:辻本侑生倉田慧一(建築史)「探究の場としての「木賃アパート」の歴史的背景(仮)」
     14:40~15:30 発表2:田辺裕子中川亮「「木賃アパート」を拠点とする探究と対話の実践(仮)」
     15:40~15:55 ゲストディスカッサントによるコメント:川松あかり(民俗学)
     15:55~17:00 総合討議
    ■共催:〈ラボラトリ文鳥〉
    ※本研究会は、公益財団法人トヨタ財団2020年度国内助成プログラム『そだてる助成』の助成を受けたものです。

    趣旨:

     研究者もまたひとりの生活者である。この一見するとごく当たり前な事項から、自らの研究をはじめるためには、どのようにすればよいのだろうか。
     上記のような大きく、しかし曖昧な問題意識を胸に、2020年からこれまでの約3年間、人文系の分野に携わる若手研究者たち数名から成る団体〈ラボラトリ文鳥〉[https://laboratorybuncho.wixsite.com/mysite]は、東京都豊島区上池袋にある木造アパートをシェアスペースとして運営しながら、「生活者」として「生活圏」で研究するスタイルを模索してきた。この活動の背景には、自分の専門に直接かかわらないが時間を割いて取り組むべき事柄を何かしら意識している若手研究者どうしの、分野を超えた繋がりがある。そのような場では、生活者としての関心もまた、学術的な関心と同じように共有されてきた。〈ラボラトリ文鳥〉の活動拠点では、大学のキャンパスでは語りにくい個人的なことが話題に上がることも珍しくないし、まったく予期しない生活の一場面で学術的な関心が前に開けた感覚を得ることもある。こういった出来事を待ち構え、歓迎する営みを「探究」と呼んできた。
     上池袋で生活者であることと研究者であることとを往来してきた〈ラボラトリ文鳥〉にとって、キーワードとなってきたのが「木賃」である。「木賃」と聞いて、木造賃貸アパートを思い浮かべるひとはどれくらいいるだろうか。上池袋にはいまだに木造家屋が多く、2016年から上池袋で展開してきた〈かみいけ木賃文化ネットワーク〉[https://edit-local.jp/interview/kamiike/]や、その活動を下地としてきた〈ラボラトリ文鳥〉の活動では、遊休化した物件を活動的な地域住民に開くことを目指し、「木賃」をローカルな活動を活性化しうる要素として注目してきた。
     一方、東京都が指定する不燃化特区のひとつであることからも明らかなように、「木賃」は火災のリスクの点から減らすべきものとされている。さらに、「木賃」におけるトイレ共用・風呂無しという生活は経済的貧しさと分かちがたいものであり、地域における「木賃」の再活用を志すことの豊かさには二重のアイロニーが常に含まれることは忘れてはいけない。
     この研究会では、生活者として研究することを模索するわたしたちが「木賃」に投影してきた期待のありようを振り返りながら、(フィールドワークを行う分野に限らず)人文学が日常に接続する瞬間を探し求めたい。生活者であることと研究者であることとを誠実に両立する方法は、ひとりひとりが発明するべき、今の時代の生き方そのものであろう。異なる分野の専門性と、異なるフィールドや生活世界を持つ人々とが集い、共に検討する時間にできたら幸いである。(文責:田辺裕子・辻本侑生・中川亮)


    【参加登録について】
  • 非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、第67回研究会「生活と探究の民俗学:上池袋・木賃アパートから考える」にご参加を希望される方は、下記のフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
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  • 《第67回研究会参加登録フォームはこちら》



    第66回研究会「民俗芸能とヴァナキュラー芸能のあいだ」

    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日時:2023年3月11日(土)13:00~
    会場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    コーディネーター:
     菅豊(東京大学東洋文化研究所)
     川田牧人(成城大学文芸学部)
     松岡薫(天理大学文学部)
    司会:
     菅豊
    基調発表者:
     松岡薫
      「俄はヴァナキュラー芸能なのか?―熊本県南阿蘇地方の俄から考える―」
    発表者:
     川田牧人
      「人はいかにしてシロウト芸人になるか」
     日比野啓(成蹊大学文学部)
      「「新しい(民俗?)藝能」について」
       資料リンク先:https://projects.khibino.net/wp-content/uploads/2023/03/35450d6b80a618a1416b233fec5e9634.pdf

    ■共催:東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、野の文化論研究会(科研「ヴァナキュラー概念を用いた文化研究の視座の構築―民俗学的転回のために―」)

    趣旨:

     いかに人々は芸能を演じるのか。これは、民俗芸能研究において、とくに1990年代以降広く共有されてきた問いであろう。しかしながら、従来の「民俗芸能」という枠組みによる研究では固定的な身体動作の習得過程が主な研究対象とされたため、演技の工夫や個人の技、上演の場で生じるアクシデントやアドリブといった予測不可能で不確定な演技の要素について十分な検討がなされてきたとは言いがたい。したがって、人々が芸能の「型」とは異なる演技を生み出す創造的なプロセスの解明は、今後の民俗的な芸能研究の課題の一つといえるだろう。
     この課題を乗り越えるため、本研究会では近年、菅豊や島村恭則らが挑戦しているヴァナキュラー文化研究の視点を取り入れたい。ヴァナキュラー文化研究では、歴史性や伝統性、継承性(日本民俗学でいえば「伝承性」)を特徴とする文化を類型的、定式的、固定的に捉えるのではなく、むしろ普通の人々が日常のなかで創造的に生み出す文化実践の、非正統で非公式、非定式な側面に着目する。つまり、ヴァナキュラーという概念を導入することによって、必ずしも継承されるとは限らない、一回的で創造的な芸能実践、つまり「ヴァナキュラー芸能」、また「民俗芸能のヴァナキュラー性」といった問題を議論の俎上にあげることができると考えられる。
     そこで本研究会では、まず松岡薫が一回的で即興的な演技を特徴とする俄(にわか)という「異端」の芸能を事例に、いかに地域の人々が俄の演技を作り、演じているのかという視点から、ヴァナキュラー芸能としての俄とその創造性について論じる。
     さらに、議論を深めるために、文化人類学の立場から奄美大島の余興演芸について研究をしている川田牧人氏と、演劇学の立場から日本全国の地域市民演劇について研究をしている日比野啓氏にコメントしていただく。
     そして、民俗芸能研究にヴァナキュラー芸能という視点を導入することの可能性について、フロアを交えて議論していきたい。(文責:松岡薫)

    基調発表要旨:

     発表者は、民俗芸能における演技の創造性という問題関心のもと、熊本県阿蘇郡高森町の風鎮祭で演じられている俄(にわか)という芸能を対象に、いかにして俄の演技が作られているのかについて研究を進めてきた[松岡2021]。高森の俄の場合、その年の流行や話題を取り入れた10分程度の滑稽芝居を毎年作り、祭りのなかで上演する。稽古の場では、粗筋、登場人物、芸題、落としといった演目に関わる全てのことを、演者である青年たちが一からアイディアを出し合い、作っていく。演技の最中には観客からのヤジが飛んだり、アクシデントによって台詞がちくはぐになることもある。こうした上演の様子をみて、決められた台詞を覚えて芝居をする一般的な演劇と比べ、俄は稚拙で洗練されていない芸能だと感じる者もいるだろう。たしかに一回的で即興的な俄の演技は、正統な「型」を習得し演じることを前提としてきた従来の民俗芸能研究や演劇学では扱いづらい対象であった。
     そこで今回の発表では、普通の人々による生活実践にもとづく創造力に着目するヴァナキュラー文化研究の視点を取り入れ、青年たちが身近な話題や出来事をどのようにして組み合わせながら演目を作り上げ、それを演じることで自分たちの俄を獲得しているのか、その制作プロセスを検討する。これらの検討を通じて、ヴァナキュラー芸能としての俄とその創造性について考察したい。
     他方で、俄はヴァナキュラー芸能なのか、という疑問も残る。例えば、高森町の俄は少なくとも史料上では江戸時代末頃には行われていたことが確認できる。俄の演技は常に生み出され、更新されている一方で、「俄を演じる」という行為自体は反復的に続けられてきた。2019年には伝統性が高く評価され、国選択無形民俗文化財にもなっている。
     このように、反復性と一回性、固定性と創造性、正統と異端という相反する性質のあいだにある俄を事例として考えてみることで、民俗芸能研究およびヴァナキュラー文化研究の進展を目論んでいる。

    文献:松岡薫2021『俄を演じる人々―娯楽と即興の民俗芸能』森話社


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    第65回研究会「中間集団の民俗学-集団を軟体として考える-」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日時:2023年1月21日(土)13:00~17:00
    会場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    発表者:
     東城義則(立命館大学)
      「問いとしての中間集団-趣旨説明に代えて-」
     鈴木昂太(東京文化財研究所)
      「民俗芸能は誰のもの?:比婆荒神神楽をめぐる人・組織・公共性」(仮)
     真柄侑(東北学院大学)
      「農協からとらえる現代の農業と農家について―岩手県紫波郡紫波町を事例に―」
     吉村健司(本部町教育委員会/国立民族学博物館)
      「地域自治組織としての漁業協同組合」(仮)
    コーディネーター:
     東城義則島村恭則(関西学院大学)

    趣旨:

     本研究会は、歴史的かつ外発的事情により形成された中間集団を扱うことで、民俗学における集団研究の方向性について議論することを目的としている。
     中間集団(intermediate group)とは、個人によって形成される私の領域と、国家によって形成される公の領域を橋渡しする社会集団にあたる(e.g.佐々木毅・金泰昌編 2004『中間集団が開く公共性』東京大学出版会、デュルケム 1971『社会分業論』青木書店、デュルケム 1985『自殺論』中央公論新社)。主に社会学や政治学の領域で論じられ、日本の民俗学においても公団住宅や東日本大震災を例とした住民自治の視点(篠原聡子 2011「赤羽台団地の共用空間と居住者ネットワーク」『国立歴史民俗博物館研究報告』171号、加藤秀雄 2017「震災被災地における中間集団と相互扶助―伝承と自治の再生に向けて-」『成城文藝』240号)や、銃後美談を例とした権力による集団の形成と同調化(善意の「中間集団全体主義」)(重信幸彦 2019『みんなで戦争 銃後美談と動員のフォークロア』青弓社)等を主題として論じられてきた。
     その一方で、これらの研究で論じられた中間集団の特徴は、宮座や講といった集団でも論じることが可能である。宮座や講に代表される日本の集団研究は、意思決定の方式や成員の権限、相互扶助の様子といった集団活動の特徴や集団の有する権利、集団の社会的機能を解明することに重点を置いてきた。また研究対象としても、血縁や地縁を媒介とする集団を中心としてきた傾向にある(e.g. 国立歴史民俗博物館編 2011『宮座と社会-その歴史と構造』国立歴史民俗博物館研究報告集161号、長谷部八朗(監修)・講研究会編集委員会(編) 2022『人のつながりの歴史・民俗・宗教―「講」の文化論―』‎八千代出版)。
     これらの集団に加え、近年では保存会に代表される歴史的かつ外発的事情により形成された集団についても研究が行われている。例えば保存会の研究では、集団の組織や構成原理といった内的事情に加え、文化財行政の脈絡における集団の表象や特権化といった外的事情について指摘されており、本研究会の趣旨とも共通する論点を提示している(俵木悟 2009「民俗芸能の「現在」から何を学ぶか」『現代民俗学研究』1号、俵木悟 2018『文化財/文化遺産としての民俗芸能:無形文化遺産時代の研究と保護』勉誠出版)。
     以上を前提として、本研究会では歴史的かつ外発的事情により形成された中間集団を取り上げることで、民俗学における集団研究の方向性やテーマについて議論を行う。研究会では、三名の方に講社・保存会、農業協同組合、漁業協同組合の組織、活動、成員個人の実践等についてお話をいただく。三名の方に各集団の形成経緯や集団内部の意思決定、集団に属する個人の活動についてご報告いただくことで、公(官)の統制、私(民)の主張、両者の影響を受けて形成される中間集団も、実際には団体や組合といった組織や、活動する土地の状況によって異なるモチーフを有する集団であることを確認する。そのうえで民俗学における集団研究の意義と方向性を共有し、中間集団を問うことで派生する研究テーマについて議論する。(文責:東城)


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    第64回研究会「民俗学の論点2022」


    ご案内:

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    日時:2022年10月15日(土)13:00~17:00
    会場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    タイムテーブル:
     13:00~13:05 会長挨拶:岩本通弥
     13:05~13:10 趣旨説明:関沢まゆみ
     13:10~13:20 関沢まゆみ(国立歴史民俗博物館)「民俗の変遷と伝承-疱瘡習俗:COVID-19禍のなかで-」
     13:20~13:30 島村恭則(関西学院大学)「『現代の課題:生き方の課題と文化の課題』ほか」
     13:30~13:40 東城義則(立命館大学)「中間集団の民俗学-集団を軟体として考える-」
     13:40~13:50 松村薫子(大阪大学)「日本民俗学を世界にどのように伝えるのか」
     13:50~14:00 伊藤純(川村学園女子大学)「感性をいかに記述するか/感性はいかに記述されるか」
     14:00~14:20 休憩
     14:20~14:30 菅豊(東京大学)「因習化する民俗-現代的価値と伝統的価値との相克に民俗学者はどう向き合うのか?-」
     14:30~14:40 加藤秀雄(滋賀県立琵琶湖博物館)「環境民俗学の現代的課題を探る」
     14:40~14:50 川田牧人(成城大学)「共感から共歓へいたる道-私の論点2022-」
     14:50~15:00 片岡樹(京都大学)「海外フィールドから逆さ読みする日本-民俗学と人類学は互いに何を学び得るか-」
     15:00~15:15 村上忠喜(京都産業大学)・後藤知美(東京文化財研究所)
           「最近の文化政策の展開と民俗学-文化財保護・博物館の転換を民俗学としてどう受け止めるか、どう利用するのか-」
     15:15~15:35 休憩
     15:35~17:00 討論

    趣旨:

      現代民俗学会が設立されて14年になる。この間、「民俗学の論点」については、2014年、2016年、2020年に議論された。そして、それをその後の研究会の企画に活かしてきた。今回、第8期の研究企画委員会では、民俗学や関連諸科学をめぐる学会コミュニティの研究動向や学問をとりまく社会状況を見渡しながら、研究会のテーマを設定していく予定である。「民俗学の論点 2022」では、現代社会において民俗学が取り組み得る/取り組むべき課題について、皆さんと議論を深めたいと考えている。


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    第63回研究会「近代の先祖の話—問芝志保『先祖祭祀と墓制の近代:創られた国民的習俗』を読んで考える」


    ご案内:

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    日 時:2022年8月6日(土)13:00~
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)

    登壇者:
     問芝志保(東北大学)・大地真帆(Independent scholar)・辻井敦大(立命館大学衣笠総合研究機構)
    司会進行:
     土居浩(ものつくり大学教養教育センター)・島村恭則(関西学院大学)

    趣旨:

      2020年10月に刊行された問芝志保『先祖祭祀と墓制の近代』春風社(出版社ウェブサイト) には、2010年代に宗教学領域の学会で発表された諸論考が集積されている。本書のタイトルに含まれる「先祖」と「墓制」は、社会学そして民俗学で、研究が蓄積されてきた。一書にまとめられたことで、宗教学・社会学・民俗学そして関係諸領域での「先祖」「墓制」ひいては葬墓制領域の議論が活発になることを期待し、その導火線となるべく、今回の研究会を企画した。


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    第62回研究会「21世紀を生きる人々のための民俗学―菊地暁著『民俗学入門』を読む、語る―」

    書影

    ご案内:

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    日 時:2022年5月14日(土)13:00~
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)

    コーディネーター:
     菅豊(東京大学東洋文化研究所)
     塚原伸治(東京大学大学院総合文化研究科)
    司会:
     菅豊
    発表者:
     菊地暁(京都大学人文科学研究所)「著者による解題『民俗学入門』」
    評者:
    菅豊塚原伸治渋谷慶之(東京大学大学院総合文化研究科修士課程)


    趣旨:

      野心的なガクモンとしての民俗学へ誘う野心的な入門書『民俗学入門』(岩波書店)が、このたび上梓された。その野心的な内容は、いま多くの人々に注目され、大きなインパクトを与えつつある。この本では、「伝統的」生活様式から近代を経て21世紀にいたる道筋が、多様な事例をもとに提示されており、それによって21世紀を生きる人々は、自らの生活体験にリンクしながら民俗学を学ぶことができる。それは、これからのいくつもの民俗学を見渡すことができる「見取り図」となっている。
     本研究会では、著者・菊地暁氏による『民俗学入門』の執筆の動機や経緯、著述の書誌的な来歴、その内容や特徴、工夫についての解説の後、3名の評者、および参加者による合評、そしてそれへのリプライを行う。さらにこの本を起点として立ち現れる21世紀の民俗学像を語り合いたい。

    ■共催:現代民俗学会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、野の文化論研究会(科研「ヴァナキュラー概念を用いた文化研究の視座の構築―民俗学的転回のために―」)

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    第61回研究会「民俗学をクィア化する」


    ご案内:

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    日 時:2022年3月19日(土)13:00~17:00
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)

    発表者:
     辻本侑生(弘前大学)「クィアの民俗学、および民俗学のクィア化に向けて」
     辻晶子(大阪経済大学)「南方熊楠と岩田準一の‟男色談義”とは何だったのか」
     三上真央(民間企業勤務)「クィアとされる人々をまなざす―大阪府守口市性善寺の実践から―」
    コメンテーター:
     島村恭則(関西学院大学)

    コーディネーター:辻本侑生(弘前大学)、島村恭則(関西学院大学)

    趣旨:

     クィア(Queer)―直訳するならば「奇妙な」「風変わりな」-は、差別を受け、社会的劣位に置かれた性的マイノリティたちが諧謔的に自称する語であったが、20世紀末期から21世紀初頭にかけて人文社会系における重要なキーワードの一つとなり、いまやクィアスタディーズは文学や表象文化論に限らず、社会学、人類学、地理学、哲学、宗教学、そして神学等、多様な学問分野を横断する領域として、研究や社会実践が進められている。ひるがえって民俗学の状況をみると、日本の民俗学ではクィアに関する研究の蓄積は草創期を除いてほぼ皆無であり、民俗学がアカデミズム化し、制度化する過程において、クィアな存在や現象を捉える視座が後景化してしまったことがうかがえる。また、性的マイノリティについて社会運動や法制度の面で先行しているアメリカの民俗学においてすら、これまではクィアは数多くある研究トピックの一つであったと捉えるのが妥当であろう。 
    しかしながら、2021年にアメリカ民俗学の若手研究者が複数参画して出版されたAdvancing Folkloristicsという書籍では、クィアを一つの研究トピックなどではなく、民俗学を刷新し、さらには民俗学全体を性格づけるキーワードとすることが試みられている(島村恭則2021「ジェシー・ファイブコート他編『民俗学の前進』」(『現代思想』2022年1月号、特集=現代思想の新潮流 未邦訳ブックガイド30))。こうしたアメリカ民俗学の学問的動向は、2010年代後半の共和党政権下のアメリカで発生したマイノリティをめぐる様々な事件とそれらをめぐる社会運動に呼応する部分が大きく、性的マイノリティに関する国民的議論が高まりを見せている日本においても、民俗学の立場から議論し、発言していくタイミングは今を逃して他はないと言えよう。
     そこで、本研究会では、クィアの視点から民俗学の新たな可能性を拓いていく―大胆に言えば「民俗学をクィア化する」―ための第一歩を踏み出すことを目的とする。まず、コーディネーターの辻本より研究会の趣旨と議論の枠組みを示す。次に、中世文学がご専門であり、南方熊楠と文通で交流しながら男色研究を進めた民俗学者・岩田準一の学史的研究を行われている辻晶子氏にご発表いただき、日本の民俗学の中でも周縁化されてきた草創期の研究実践から、今後の研究につながる可能性を再検討する。さらに、関西地方において性的マイノリティの人びとが集う宗教施設で調査を継続してきた三上真央氏にご発表いただき、民俗学的フィールドワークの強みを活かしながらクィアスタディーズに参画する方途を探る。
     アカデミズムであれ在野であれ、クィアが民俗学の正当な研究対象であるということに疑いの余地はない。こうした前提を踏まえた上で本研究会では、これまで多分野のクィアスタディーズが精緻に議論を積み重ねてきた性的マイノリティ研究から議論を始めつつも、クィアという語の原義にも立ち返り、民俗学が扱う多様な対象―ここにはいわゆる「民間伝承」や「口承文芸」と呼ばれてきたものも入るであろう―をクィアの視点からどのように捉えうるか、ご参加の皆様と議論を進めていきたいと考えている。(文責:辻本侑生)

    【参加登録について】
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    第60回研究会「人類学×民俗学?―両者を浮遊するアカデミック・サロン」


    ご案内:

    ■本研究会は現代人類学研究会との共催となるため、通常とは参加方法が異なります。参加方法については以下をよくお読みください。

    日 時:2022年3月5日(土)13:00~16:00
    開催形態:オンライン(Zoom)開催(事前登録制)
    参加方法: 申し込みフォーム(申し込み締め切り3月3日17時)。
    上記のフォームから2022年3月3日(木)17:00までに必要事項をご登録ください。研究会前日にご登録のメールアドレス宛に参加用Zoom URLをお送りします。

    発表者:
    辻本侑生(弘前大学)「開催趣旨説明」
    話題提供①:川松あかり(東京大学)「人類学者と民俗学者と、筑豊の人と東京の人とのあいだを彷徨って考えてきたこと」
    話題提供②:北川真紀(東京大学)「フィールド経験と人類学―福井県での長期調査から考える人類学的な態度について」
    話題提供③:辻本侑生(弘前大学)「「民俗学専攻じゃないけど民俗学です…」―福井焼畑山村調査の10年―」
    話題提供④:中野真備(京都大学)「ホシみる漁師を追いかけて―国も分野もこえて考えること」
    話題提供⑤:荒木真歩(神戸大学)「分野という島々の航海から思うこと―民俗音楽・芸能の研究から―」

    ・ファシリテーター:河村悟郎(東京大学)
    ・コーディネーター:川松あかり(東京大学)・北川真紀(東京大学)・辻本侑生(弘前大学)

    趣旨:

     文化人類学と民俗学は、学問の成り立ちや学説史にそれぞれ違いはあるものの、大学では同じセクションに含まれていることも多く、両者は近しい存在であるといえます。
     以前から人類学と民俗学は、様々な場面で協働を積み重ねてきていました。人類学者は海外に加え国内をフィールドとすることも珍しくありませんが、今後さらに人類学者と民俗学者が近い地域でフィールドワークをすることも増えていくと考えられます。研究テーマとしても、例えば東日本大震災からの復興については人類学者と民俗学者の協働による成果が複数生み出されており、今後も人類学と民俗学が様々なフィールドやテーマで交流していく可能性は十分にあると思われます。ただ、20代~30代前半くらいの若手研究者の世代においては、同じ研究室にいたとしても、それぞれどのようなことに関心があって、どのような研究をしているのか、よくわからないという声も聞かれます。また一個人の調査・研究をする中で、時には人類学や民俗学などのディシプリンに割り切れない部分があると感じることもあるのではないでしょうか。
     そこで今回の企画は、人類学と民俗学の違いを厳密に探求するのではなく、両者のあいだを「浮遊する」複数の若手研究者が、①どのような経緯で人類学や民俗学に関わりを持つようになり、②自身の研究関心と「人類学」・「民俗学」・「地域研究」といったディシプリンとの関係をどう捉え、どう試行錯誤してきたのか等について、話題提供を行います。話題提供の後には、これまでのディシプリンの中で積み重ねられてきた議論を尊重しつつ、その枠を超えて自身の研究関心を展開させたり、相互に議論や協働を進めたりしていくにはどうすればよいのか、気軽な雰囲気のなかで自由に意見交換をすることを目指します。人類学や民俗学に関心のある学部生・大学院生の方をはじめ、多くの皆様のご参加をお待ちしています。

    ・お問い合わせ先:
    c.anthro.workshop.info[at]gmail.com(現代人類学研究会事務局)

    ※タイムスケジュール等の詳細は、現代人類学研究会ウェブサイトをご覧ください。

    第59回研究会「民俗学のデジタル・ヒューマニティーズ的展開」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日 時:2021年12月19日(日)13:00~
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)

    発表者:
     河瀬彰宏(同志社大学文化情報学部)「近年のデータサイエンスによる民俗学研究」
     日高真吾(国立民族学博物館人類基礎理論研究部)「国立民族学博物館における研究情報の可視化・高度化の取り組み」
    コメンテーター:
     後藤真(国立歴史民俗博物館研究部)

    コーディネーター:内山大介(福島県立博物館)、菅豊(東京大学東洋文化研究所)、俵木悟(成城大学文芸学部・趣旨説明)

    趣旨:

     近年の人文科学において学際的に取り組まれている「デジタル・ヒューマニティーズ」であるが、これまで日本の民俗学においてはその動向が注目されることはほとんどなく、近年はむしろ「乗り遅れ」への危機感が表明されている(e.g. 菊地 2019, 俵木 2019)。しかし民俗学は、文字資料のみならず、人びとの語りや記憶や身体技法、また図像・映像・音声・物質といった多様な形態をとる資料を取り扱い、それらを地理的・歴史的な比較や体系化等によって分析・考察することを旨としてきた。またそうして得られた研究の成果を、専門家のみならず、広く一般の人びとまで含めて共有し、活用することで、自らの生活文化を省みて理解する視点を提供することを目指してきた。このような学問としての性格は、データサイエンスやデジタルテクノロジー、デジタルメディアと親和性を有し、その発展の恩恵を大いに受けるものであるはずだ。この研究会では、研究の手法とその成果の活用の両面から、民俗学のデジタル・ヒューマニティーズ的展開の可能性を探りたい。

    菊地暁 2019「文化資源:オープンであること/デジタルになること」『日本民俗学』300
    俵木悟 2019「民俗学とデジタル・ヒューマニティーズ」『日本民俗学』299

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)

    【参加登録について】
  • 非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、第59回研究会「民俗学のデジタル・ヒューマニティーズ的展開」にご参加を希望される方は、下記のフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
  • ■登録後 、ZoomミーティングのID・パスコードを含む参加情報メールをお送りいたします。メールをなくさないようにご注意ください。
  • ■参加情報メールに書かれている注意事項をよくご確認のうえでご参加ください。
  • ■参加情報のメールを紛失された方は、改めて参加登録をお願いいたします。
  • 本会の会員メーリングリストにご登録をいただいている方は、研究会前日までに会員向けメーリングリストを通じてミーティングURLとパスコードを含む参加情報をご案内いたしますので、参加登録をいただく必要はございません。

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    第58回研究会「〈フェスティヴァル〉から〈ヴァナキュラー〉な〈アート〉を考える」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日 時:2021年12月11日(土)13:00~
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)

    発表者:
     小長谷英代(早稲田大学社会科学総合学術院社会科学部)「〈アート〉における〈ヴァナキュラー〉の視点—グローバル化と「フォークライフ・フェスティヴァル」」
     原聖(青山学院大学文学部客員教授)「フォークロアとフェスティヴァル-ケルト文化圏の事例から」
    コメンテーター:
     俵木悟(成城大学文芸学部)
     塚原伸治(東京大学総合文化研究科)
    コーディネーター:小長谷英代菅豊(東京大学東洋文化研究所)

    趣旨:

     〈ヴァナキュラー〉の視点から〈アート〉を考える時、〈フェスティヴァル〉は注目したいテーマの一つである。〈フェスティヴァル〉は社会空間の多様な文脈の交錯に生成されるとともに、歴史の中で常に新たな形や意味に再生され、学術概念には容易に捉え難い対象である。とりわけ、20世紀以降の大衆化や商業化等の都市的要素の拡大においては、学術性や科学性を強調していた文化人類学的・民俗学的研究では、どちらかといえば敬遠されがちなテーマであったかもしれない。とはいえフェスティヴァルには大衆性や商業性に拘らず、社会や土地の歴史、信仰、価値観、アイデンティティ、あるいは対立や疎外等、日々の生活に関わる集団・個人の関係、経験、記憶等、文化/アートの理解には重要な文脈が内包される。〈ヴァナキュラー〉を考えるうえでも主要なテーマであり、より踏み込んだ研究が求められる。
     殊に今、〈フェスティヴァル〉は、これまで以上に文化人類学的・民俗学的観点が活かされるべき場である。1980年代以降、グローバル経済の下で急速に広まる創造都市や創造産業等の趨勢では、「フォーク・フェスティヴァル」を含む、多種多様な「アーツ・フェスティヴァル」が世界各地に増加・拡散し、その存在感を強めている。学術研究では、今や〈フェスティヴァル〉は文化領域というより、経済、観光、都市開発等の領域が主導するテーマに置き換えられつつある。こうした現実に文化人類学的・民俗学的研究はどのように関わっていくのか。今回の研究会では、〈フェスティヴァル〉に焦点をあて、あらためて今日のアート/文化への両領域のアプローチおよび現代社会における位置や方向性を見直す。すなわち、〈フェスティヴァル〉を今日、アート/文化の歴史・社会的意味等に起きている大きな変動や問題が凝集される場とし、具体的な事例から、領域が今日置かれている学術研究や社会的関心・動向を捉えながら、「アート」における「ヴァナキュラー」を考える契機としたい。【文責: 小長谷英代】

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)

    【参加登録について】
  • 非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、第58回研究会「〈フェスティヴァル〉から〈ヴァナキュラー〉な〈アート〉を考える」にご参加を希望される方は、下記のフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
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    第57回研究会「『民俗学の思考法』をどう読むか:日常とヴァナキュラーの民俗学」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日 時:2021年11月20日(土)13:00~17:30
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    報告者等:
     松村利規(福岡市博物館)
     澤井真代(立正大学非常勤講師)
     德永紗英(東京大学後期教養学部)
      リプライ 門田岳久(立教大学)

    コーディネーター・司会:川松あかり(東京大学大学院)、島村恭則(関西学院大学・趣旨説明)

    趣旨:

     本年(2021年)3月、新たな民俗学のテキストとして『民俗学の思考法:<いま・ここ>の日常と文化を捉える』(慶応義塾大学出版会)が刊行された。 これまでの民俗学教科書の多くが「民俗」の事例紹介にとどまっていたのに対して、この本は、「日常」と「ヴァナキュラー」を主軸に据え、民俗学的な「ものの見方」や方法、理論的展望などを明示しようとしているところに特徴がある。
     本研究会では、①博物館や自治体史編纂の現場、②大学教育の現場、③民俗学を学ぶ学生、という3つの立場からの報告をもとに、本書の持つ可能性やこれからの民俗学の展望について議論する。


    【参加登録について】
  • 非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、第57回研究会「『民俗学の思考法』をどう読むか:日常とヴァナキュラーの民俗学」にご参加を希望される方は、下記のフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
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  • ■参加情報メールに書かれている注意事項をよくご確認のうえでご参加ください。
  • ■参加情報のメールを紛失された方は、改めて参加登録をお願いいたします。
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    第56回研究会「民俗学者の「生きる方法」―若手研究者向けキャリア支援企画―」


    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。
    ■どなたでもご参加いただけますが、特に学部生・大学院生等の皆様のご参加を、心よりお待ちしております。各報告者のご経験を踏まえた発表と全体討論のほか、ブレイクアウトルームを活用し、報告者の分野ごとに分かれて質疑や議論を行う時間を設けることも想定しております。

    日 時:2021年8月22日(日)13:00~17:00
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    コーディネーター:辻本侑生(民間企業勤務)、島村恭則(関西学院大学)

    タイムテーブル:
     13:00~13:15 趣旨説明:辻本侑生
     13:15~13:45 発表1:内山大介(福島県立博物館)
      「職場としての博物館・公務としての民俗学―「学芸員は研究者なのか」を考える―」
     13:45~14:15 発表2:大道晴香(國學院大學)
      「〈順調な研究者〉はいるのか―「スタンダード」ではなく、「セルフプロデュース」という考え方」―
     14:15~14:45 発表3:市東真一(神奈川大学日本常民文化研究所・株式会社しづか)
      「“地域”で続ける民俗学―実践と研究の間から―」
     14:45~15:00 休憩
     15:00~16:20 ブレイクアウトセッション(計3ターム)※発表者ごとにルームを分け、参加者との質疑応答を実施
      ファシリテーター:倉石美都(京畿大学)、島村恭則辻本侑生
     16:20~17:00 全体総合討論


    趣旨:

     人文社会科学系の学問において、若手研究者が経済的・社会的に弱い立場に置かれるいわゆる「若手研究者問題」が指摘されて久しくなっています。民俗学においては、アカデミックポストのみならず、博物館学芸員や文化財専門職においても非正規職雇用が増え、若手研究者が自身の研究を安定的に続けることが難しい状況もみられると推察されます。
     ここで留意しておきたいのは、民俗学という学問が、大学や文化財行政の中で、そもそも周縁的な位置を占めているということです。例えば、日本において制度的に大学のカリキュラムに「民俗学」が位置付けられているケースは珍しく、また、文化財行政をみても、専門職のほとんどは考古学等の専門家であり、民俗学を専攻した専門家が雇用されているケースは少なくなっています(内山大介2020「多様化する文化政策と民俗学」現代民俗学会第50回研究会発表)。
     しかし、こうした「周縁性」は、デメリットであるように見えて、実は民俗学の強みでもあります。大学や行政、企業、地域など、様々な場において、あえて「周縁」的なスタンスをとることで、それぞれの職場にうまく適応しつつも、その場において当たり前とされている考え方や仕方を相対化し、新たな価値を生み出していくことができると考えられるからです。いわば民俗学者の「生きる方法」(島村恭則2010『〈生きる方法〉の民俗誌』関西学院大学出版会)というべきものがあるのではないでしょうか。
     本研究会は、民俗学者の「生きる方法」について、学問そのものの性格を踏まえた位置づけを試みつつ、大学・博物館・地域のそれぞれで活躍されている方にご登壇いただき、若手研究者に向け、ご自身のご経験をシェアしていただくことを企図しています。

    【7月1日追記】
  • 非会員およびメーリングリストにご登録されていない方で、第56回研究会「民俗学者の「生きる方法」―若手研究者向けキャリア支援企画―」にご参加を希望される方は、下記のフォームからご登録ください。会員資格を問わず、どなたでもご参加いただけます。
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    第55回研究会
    シリーズ「フィールドとしての農村・再考」Part.2「農民美術から民俗学史を拡張する」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日 時:2021年8月7日(土)13:00~16:00
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    コーディネーター:加藤幸治(武蔵野美術大学)、菅豊(東京大学)

    タイムテーブル:
     13:00~13:20 問題提起:加藤幸治「拡張する農民美術運動と農村の工芸」
     13:20~14:40 発表1:青江智洋(京都府立丹後郷土資料館)「近代日本における副業奨励と農民美術」
              発表2:趙岩(武蔵野美術大学大学院)「中国における「民間美術」と陝北民俗剪紙の近代」
     14:40~14:50 休憩
     14:50~15:50 討論(加藤幸治青江智洋趙岩菅豊

    趣旨:

     民俗学史は、学問としての民俗学の形成過程としての「正史」と、必ずしも研究を目的としない在野の実践を育んだ「外史」の、両面を見なければ描き出すことができない。このシリーズ「フィールドとしての農村・再考」は、民俗学の「野の学問」としての性格を浮き彫りにするため、民俗学史の外縁にある多様な実践に目をむける試みである。
     Part.1の第52回研究会では、農民文学と農村問題をとり上げた。Part.2である今回の研究会のテーマは、農民美術である。郷土玩具趣味や民藝運動、民謡や郷土芸能、農村青年教育などの多様な実践は、国民国家における庶民文化の多様性へのまなざしがその土台となっている。その意味において、「フィールドとしての農村・再考」は「フォークロア・再考」の端緒となりうる。
     農民美術運動とは、大正から昭和初期にかけて、美術家・山本鼎が中心となって推進された運動である。彼は、冬は雪に閉ざされる長野県の農村において、若者に木彫りや刺繍などの工芸技術の訓練を行って農民らしい造形表現を生み出し、それを東京の百貨店等で販売した。農民美術は、正規の美術教育を受けていない農村青年・女子が、常に土に根ざした生活のなかで育まれる感性をもとに意匠を創出し、農民であるがゆえに生まれる表現を目指すものであった。農民美術運動は、子どもが子どもらしい自由な絵画表現を行う児童自由画運動や、戸外制作や鑑賞、教養を重視した自由画教育とセットで展開し、美術による人間復権を志した運動でもあった。
     農民美術運動の広がりは、行政による副業政策と結びついて農村産業振興に取り入れられていったり、国内観光や郷土研究と結びついたりと、当初の美術運動としての性格から大きく拡張していった。そしてそれは、とりわけ地域の工芸技術の活性化や近代化と結びつくものであり、農山漁村の工芸に大きなインパクトをもたらすことがあった。そうした広がりは、まさに民俗学が学問としてのかたちを成していく時期に展開したものであった。
     今回の研究会では、農民美術運動の拡張や地域的受容と、工芸技術に対するフォークロアとしてのまなざし、そしてまなざしに自覚的な農村の人々によるものづくりの実践に着目する。日本における農民美術と工芸技術をめぐる政策との関わりについての事例を青江智洋氏から、中国における「民間美術」としてのまなざしと農村工芸の展開について事例を趙岩氏からそれぞれ話題提供いただき、日中の比較の視点も入れながら議論を広げていきたい。

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)

    第54回研究会「どうしてこれが民俗学!?:カフェ・で・ヴァナキュラーの試み」

    ポスター
    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日 時:2021年3月20日(土・春分の日)13:00~17:00
    会 場:オンライン(Zoom)によるリアルタイム開催

    報告者:
     倉石美都(韓国・京畿大学校)
     「韓国におけるせめぎあうヴァナキュラー」
     陸薇薇(中国・東南大学)
     「中日のトラックドライバーのヴァナキュラー」
     辻本侑生(民間企業勤務)
     「「切実さ」と「好奇心」の狭間としての民俗学の可能性」

    コーディネーター:土居浩(ものつくり大学)、島村恭則(関西学院大学)

    趣旨:

     2020年11月に『みんなの民俗学:ヴァナキュラーってなんだ!?』(島村恭則著、平凡社新書)が刊行されました。本書は、ヴァナキュラー(=〈俗〉)という概念を導入することで現代の日常に対する民俗学的アプローチが可能となることを示すとともに、現代民俗学の面白さを広く世の中に伝えようとした本です。この本の帯には、「どうしてこれが民俗学!?」と記されていますが、これは本書の試みが、一般社会で流通している民俗学のイメージを大きく刷新する内容であること表わしています。
     本研究会は、本書の路線を出発点に、さらに広く、深く、豊かな現代民俗学のあり方を、次代を担う若い世代の研究者たちによる自由な議論によって探っていこうとする試みです。サブタイトルを「カフェ・で・ヴァナキュラーの試み」としたのは、自由な議論をうながすための仕掛けであったはずの「談話」や「懇親」の場を、なんとかオンライン上でも企てられないか、との目論見からです。もちろん「哲学カフェ」「デス(死生学)カフェ」等々の試みにも触発されていますが、なにより『みんなの民俗学』が取り上げた「喫茶店モーニング」のような雰囲気こそが、『みんなの民俗学』を議論するに相応しいと考えたからです。
     こうした趣旨のもと、具体的には次の3名の報告者による発題と、それにつづく参加者全員による自由なディスカッションを行っていきます。

    倉石美都 「韓国におけるせめぎあうヴァナキュラー」

     韓国社会では、社会全体が男女平等をめざすことによって、これまで男性のヴァナキュラー、女性のヴァナキュラーと区別されていたものの境界が曖昧になってきている。そしてこのことがまた、性別間、あるいは世代間のせめぎあいとなって現れるようにもなっている。外国人として、女性として、教員としての目から韓国のヴァナキュラーをどのように扱っていくか、日本のヴァナキュラーとも比較しながら議論していきたい。

    陸薇薇 「中日のトラックドライバーのヴァナキュラー」

     『みんなの民俗学』で論じられているヴァナキュラーの考え方を参考に、中国のトラックドライバーの間にみられるヴァナキュラーを一例として取り上げ、現代中国におけるヴァナキュラー研究の可能性を考える。また、報告者は『みんなの民俗学』の中国語版(浙江大学出版社より刊行予定)の翻訳者でもあることから、中国語版『みんなの民俗学』をめぐる話題についても提供する。

    辻本侑生 「「切実さ」と「好奇心」の狭間としての民俗学の可能性」

     『みんなの民俗学』の冒頭部では、幼少期から高校生の時までの著者の切実な問題が、民俗学に出会うことで解決するエピソードが描かれている。この書籍を読んで、私は、民俗学とは自他の「切実さ」と「好奇心」とを往還しつつ行われる実践ではないかと考えた。本報告では、発表者がこれまで関わってきた現場(年越し派遣村、焼畑山村、津波常習地、差別研究、ケア研究)での経験を素材として提供し、特に不安定な社会経済的環境に置かれた若手研究者が「切実さ」と「好奇心」の狭間で悩みながら実践する方法について、思いを共有しながら議論する端緒を開きたい。



    第53回研究会 Drinking from the Cosmic Gourd

    ポスター 日 時: 2020年12月9日(水)18:00~21:00
    会 場:オンライン
    ※詳細は右のポスター画像をクリックしてください(PDFファイルが開きます)。

    講師:
     フランシス・B・ニャムンジョ(ケープタウン大学)
    ディスカッサント:
     ディヴァイン・フー(ケープタウン大学)
     太田至(京都大学)
     松田素二(京都大学)
     栗本英世(日本アフリカ学会会長、大阪大学)
     齋藤剛(神戸大学)
    挨拶:
     窪田幸子(日本文化人類学会長、神戸大学)
     岡田浩樹(Promisセンター長、神戸大学)
     梅屋潔(神戸大学)

    ・お問い合わせ: umeya★people.kobe-u.ac.jp(梅屋潔) ⇒星をアットマークに変えてください。
    ・使用言語:英語 ※通訳はありません。

    ※本シンポジウムに参加を希望される方は、会員の方も含め、下記フォームに必要事項を入力の上、お申し込みください。自動返信メールでZoomのURL等をお知らせします(申込締切日時:2020年12月8日)。

    《第53回研究会参加登録フォームはこちら》



    趣旨:

      COVID-19の流行は、近年グローバリズムとともに称揚されてきた価値観への挑戦ともいえるかもしれない。すなわちモビリティ、越境、そして多様性と共生、包摂などを危機にさらし、近代国民国家の要塞化を生んだ。アフリカの潜在力を重視し、フレキシブルなシティズンシップ、コンヴィヴィアリティを旗印にアフリカ現代思想を切り開いてきたフランシス・ニャムンジョは、今、何を語るのか。たちまちのうちに、世界でも有数の感染者を出し、厳しいロックダウンを経験している南アフリカ在住のカメルーン人人類学者、ニャムンジョの思想は、今後を生き抜くための叡智を、文学や神話、民衆の認識論から抽出しようとする。人の死や人類の帰趨も超えて、長期的な視野をそなえたニャムンジョの思想は、単にネオリベラリズムを否定して袋小路に陥るカウンターカルチャーに堕すことがない。このイベントは、ポスト・コロナの地球を生き抜くための羅針盤としてのニャムンジョの思想の真価を、ニャムンジョをよく知るコメンテーターとの対話を通じて改めて浮かび上がらせようとするものである。


    ■主催:神戸大学国際人間科学部グローバル文化学科
    ■共催:日本文化人類学会/日本アフリカ学会/現代民俗学会/神戸人類学研究会/ケープタウン大学人文学部人類学科/ケープタウン大学HUMA/神戸大学国際文化学研究推進センター/2019~2020年度二国間交流事業・南アフリカ(NRF)との共同研究「自然災害人的災害に対するレジリエンスの研究―日本とアフリカの民族誌から―」/2020~2023年度科学研究費基盤研究(B)「グローバル・ウェルフェアの実現と課題をめぐる文理協働型実証研究」/2016~2020年度「日欧亜におけるコミュニティの再生を目指す移住・多文化・福祉政策の研究拠点形成」(A.先端拠点形成型)日本学術振興会

    第52回研究会
    シリーズ「フィールドとしての農村・再考」Part.1「農民文学/農村問題から民俗学史を拡張する」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、開催日前日までに、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスコード等をご連絡いたします
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。下記の登録方法をよくお読みください。

    日 時:2020年12月6日(日)13:00~16:00
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    コーディネーター:加藤幸治(武蔵野美術大学)、内山大介(福島県立博物館)、菅豊(東京大学)
    タイムテーブル:
     13:00~13:20 問題提起:加藤幸治「課題としての「土」―もうひとつの「野の学問」の水脈―」
     13:20~14:40 発表1:今井雅之(宮城県教育庁)「吉田三郎・幻の農民文学「我田引水」」
              発表2:内山大介「体験と実践のフィールド学―昭和期東北の農村問題と山口弥一郎―」
     14:40~14:50 休憩
     14:50~15:50 討論(加藤幸治今井雅之内山大介菅豊

    趣旨:

     民俗学の「野の学問」としてのあり方が問い直されて久しい。
     それは単に、近代日本におけるアカデミズムの動向とは異なる「出自としての在野性」、すなわち「野(や)に在ること」のみをさすものではなかった。調査者のフィールドワークは、意図する・しないに関わらず社会関与的な性格を持つ。そうした民俗学の実践性に、学問としての存在意義や有用性を見出そうとするなかで「野の学問」は議論の俎上にあげられた。今日の民俗学におけるフィールドワークは、文字通りの“野外調査”をさすだけでなく、「問いの舞台としてのフィールド」すなわち「野(の)=実践のフィールドを持つこと」と不可分なものとなっている。

     戦前の民俗調査は、方言の採集などの目的のみならず、調査の行為そのものが郷土の理解、農村の振興、生活の改善といった国民的な課題とも結びついていた。一方で、民俗学が確立していく1930年代において、農村(あるいは田園)は、人間性の復権のための最前線であり、確固たる存在としての個人を追求する者の葛藤の舞台でもあった。
     「問いの舞台としてのフィールド」を深く追求しようとした当時の営みのひとつとして、農民文学がある。農民文学は、もともと自然主義文学から展開し、社会の現実と不条理との葛藤のなかで、人間性の不屈や労働に生きる人間像を描き出すことを目指した文学運動である。都市生活や工場労働等による人間疎外や、近代社会における個人の葛藤などを遠因としつつ、農民の日々の労働に依拠した詩や小説等の文学的表現、農民や共同体のあるべき姿がこれを通じて模索された。こうした問いは同時代的な共感を得ることもあれば、ラディカルな政治思想へと結びつき弾圧の対象となることもあった。
     一方で、より個人的な実践の形として農村での労働に向かった人々のなかに、民俗学との接点を持つ者も少なくなかった。吉田三郎は、秋田・男鹿の脇本村をフィールドとして、自らの生活の実践と記録、そして農民としての文学表現に身を投じた人物である。学史においては『男鹿寒風山麓農民手記』(1935年)および『同・農民日録』(1938年)で知られるが、未完の農民文学『我田引水』および戦後の著書からは、彼の現場における”問い”に触れることができる。
     もうひとつの「問いの舞台としてのフィールド」へのアプローチは、現実の農村問題と向き合うフィールドワークである。地理学や社会経済学などの訓練を積んだ者のなかには、生活の理解という接点から民俗学に近接する者も少なくなかった。民俗学は、生活の理解という目的においてさまざまな分野から乗り入れることができる「学際」、すなわち中間領域であった。『津波と村』(1943年)で知られる山口弥一郎の東北の地域研究、とりわけ彼が扱った過疎・開拓・災害のテーマにおけるフィールドとしての農村の意義は、改めて問い直してみる必要があろう。

     こうした農村を舞台とした同時代の実践を、趣味の世界の拡張、農村青年教育、田園をめぐる美術史や美学、文化記録映画といった民俗学の外史とともに見ていくことで、この学問そのものの外貌をどのように描き直せるであろうか。それは戦後の民俗学にどう引き継がれ、あるいは断絶してきたか。そして、現代におけるわたしたちのフィールドでの実践はどこへ向かっていくのか。
     本シリーズ「フィールドとしての農村・再考」では、こうした問題意識を深めるための研究を通じて、現代における民俗学の座標軸を測り直してみたい。

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)

    第51回研究会「死者と生者をつなぐアート―多様な慰霊を生み出す想像力と創造力―」


    ご案内:

    ■現代民俗学会会員の方には、研究会開催日が近くなりましたら、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスワード等をご連絡いたします。
    ■本研究会は、非会員の方にも事前申し込みの上でご参加いただくことが可能です。

    日 時:2020年11月7日(土)13:00~
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    コーディネーター:菅豊(東京大学大学院情報学環・学際情報学府)、西村明(東京大学大学院人文社会系研究科)
    司会:菅豊

    趣旨:

     慰霊は、集合的(集団的という意味ではない)で様式的、規範的、そして反復的なあり方が、これまで主として注目されてきた。一方、本研究会では、個人的で、非様式的で、融通無碍でアドホックであるヴァナキュラーな慰霊のあり方に注目する。
     それは、個々人の類い希な想像力と創造力によって生み出され、深い情動によって支えられるアーティスティックな慰霊である。またそれは、個々人の意志によって自由に生成され、創意工夫され、翻案される個人化された慰霊である。そのために、歴史性を持つ定型化した社会様式として「民俗」をとらえる視角からは、抜け落ちやすい慰霊でもある。
     至って個人的(personal)であり私的(private)なものとして、それは産声を上げるために、最後まで特定の個人によってだけ理解され、解釈され、実践され、死者とその個人とだけが取り結ばれる行為として押し留められ、他の誰にも顧みられない場合がある。またそれは、ふとしたことをきっかけに、偶然、多くの人びとによって理解され、解釈され、実践されることによって、多くの人びとと死者とを取り結ぶ社会的な行為へと転位され、集合的な行為と化す場合もある。その発生と発展、そして最後の結末までの道のりは一様ではなく、予測不可能である。
     本研究会では、そのような個人化された自由なヴァナキュラー慰霊に登場する「もの」=アートと、その製作行為に内在する想像力と創造力を、個人と社会という両面から検討する。

    発表:西村明「「架橋」としての慰霊アート」
     発表者はこれまで戦争死者の慰霊・追悼について調査・研究を行ってきた。靖国や忠魂碑の問題が出発点にあるためであろうか、これまでの慰霊研究の動向は、(実践同士の歴史的影響関係や儀礼的型など)慰霊の典型性の解明とでもいうべき方向に展開されてきたように思われる。しかし現場に目を向け、当事者の声に耳を傾けると、典型性を追究する研究者の眼にはむしろ「型破り」と見え、個人的偏差として処理してしまいたくなるような、創造性豊かな実践に直面する。本発表では戦死者の慰霊との関わりで仏像を彫ったり、8ミリ映像を制作するといった元兵士たちの営みに注目する。これらは決して慰霊に付随した余技として片付けるべきものではなく、死者やさまざまな生者と自らとの関係を紡ぎ出すヴァナキュラーな技(アート)として捉えるべきではないかというのが発表者の見立てである。「架橋」をキーワードに、考察を進めてみたい。

    コメンテーター:君島彩子(国際日本文化研究センター博士研究員)

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)

    第50回研究会「民俗学の論点2020」

    ポスター

    ご案内:

    ■第50回研究会は、現代民俗学会として初めてオンラインで実施する研究会です。試行段階であることから、大変申し訳ありませんが参加資格を「現代民俗学会会員」に限定させていただきます。
    ■現代民俗学会会員の方には、研究会開催日が近くなりましたら、会員向けメーリングリストを通じて、参加に必要なZoomのID・パスワード等をご連絡いたします。メーリングリストに登録をされていない会員の方で、新たにメーリングリストへの登録を希望される方は、9月末までを目途に本会事務局までメール(mail★gendaiminzoku.com ★をアットマークに変えてください)でご連絡ください。
    ■現在、会員でない方も、ご入会をいただくことで、第50回研究会にご参加いただくことができます。入会手続きの詳細はこちら をご覧ください(ただし、入会手続きには一定のお時間を必要とすることから、第50回研究会にご参加を希望される場合は、10月15日(木)までに入会のご申請をお願いいたします。)

    【10月22日追記】
    ■大変恐れ入りますが、第50回研究会へのご参加にあたりましては、以下の事項にご留意・ご協力をいただけますと幸いです。
    <第50回研究会へのご参加にあたり、ご留意・ご協力いただきたい事項>
    ・会員向けメーリングリストにてお知らせしたZoomのURLやID・パスワードをどなたとも共有しないよう、お願いいたします。
    ・研究会ご参加時には、必ず本会に届け出ている氏名を表示いただきますよう、お願いいたします。明らかに氏名ではないと判断された場合、個別に修正依頼のお声かけをさせていただきます。万が一、氏名表示に応じていただけない場合は、ご参加をお断りする場合がございます。
    ・研究会中にカメラオンをお願いする可能性がございます。
    ・オンライン会議システムZoomの使い方については以下のウェブサイトに掲載されている紹介ビデオなどをご参照ください。
      https://support.zoom.us/hc/ja
    ■なお、10月22日時点においても、ご参加に必要なURL等が記された会員向けメーリングリストが届いていない方は、本会事務局までメール(mail★gendaiminzoku.com ★をアットマークに変えてください)でご連絡いただければ、個別にURL等のお知らせをいたします。

    日 時:2020年10月25日(日)13:00~17:00
    会 場:オンライン開催(オンライン会議システムZoomを使用)
    タイムテーブル:
     13:00~13:05 会長挨拶:岩本通弥(東京大学)
     13:05~13:10 趣旨説明:島村恭則(関西学院大学)
     13:10~13:25 岩本通弥「『日常』が問うもの」
     13:25~13:40 俵木悟(成城大学)「古くて新しい『日常』の課題の再発掘」
     13:40~13:55 加藤幸治(武蔵野美術大学)「『フィールドとしての農村』という課題」
     13:55~14:10 内山大介(福島県立博物館)「多様化する文化政策と民俗学」
     14:10~14:25 休憩
     14:25~14:40 菅豊(東京大学)「民俗学をもっとひらこう」
     14:40~14:55 土居浩(ものつくり大学)「言うてるコトと、為してるコトとの間で考える」
     14:55~15:10 三隅貴史(関西学院大学大学院)「『記述の学』を超えて:現代民俗学の方向性にかんする一考察」
     15:10~15:25 川松あかり(東京大学大学院)「私たちは〈誰〉に向き合っているのか」
     15:25~15:40 島村恭則「新世代への期待と支援:現代民俗学の発展的再生産のために」
     15:40~15:45 休憩
     15:45~17:00 総合討論

    趣旨:

     現代民俗学会が設立されて12年、研究会も50回を迎える。その間、「民俗学の論点」については折に触れて議論(2014年、2016年)し、それをその後の研究会の企画に活かしてきたが、今回は、これまでの12年、49回の研究会の流れも振り返りつつ、民俗学や関連科学をめぐる研究動向、学問をとりまく社会状況の変化を広く見渡しながら、現在および将来に向けて民俗学が取り組みうる/取り組むべき課題について議論する。

    【新型肺炎のため開催中止】第49回研究会「葬儀の変化と地域社会」

    日 時:2020年3月7日(土)13:00~17:00
    会 場:お茶の水女子大学本館306号室
    コーディネーター:関沢まゆみ(国立歴史民俗博物館)・宮内貴久(お茶の水女子大学)
    タイムテーブル
     13:00~13:30 関沢まゆみ 「葬儀の変化と地域社会」(趣旨説明)
     13:30~14:00 武井基晃(筑波大学)「葬儀はいつから難儀になったか―葬式組の維持と動揺を事例に―」
     14:00~14:30 宮内貴久「団地の葬儀の変化と地域密着型の葬儀社の展開」
     14:30~15:00 津波一秋(筑波大学大学院)「火葬と洗骨の共存―沖縄本島南部の事例から―」
     15:00~15:15 休憩
     15:15~15:45 羽田野京(筑波大学大学院)「葬儀における無常講の変化と地域の芸能―大分県姫島村を事例に―」
     15:45~16:15 新谷尚紀(國學院大學大学院客員教授)「葬儀の変化と集落運営の現状―花田植を伝えている安芸門徒の村落の事例から―」
     16:15~16:30 古家信平(筑波大学名誉教授) コメント
     16:30~17:00 討論

    趣旨:

     昭和30年代以降、集落での溝浚えや道普請などの共同労働や、結婚、出産における地域の人びとの相互扶助など、地域社会における共同慣行が日本各地で次第に消滅していった。そのなかで、比較的遅くまで残っていたのが葬儀における相互扶助であった。しかしそれも、1990年代から2000年以降、地域の人びとの手を離れて葬儀社職員によるものとなり、まもなく葬儀の場所も自宅から葬祭ホールへと変化した。このような葬儀の業者依存へという変化、地域社会での土葬から公営火葬場利用の火葬へという遺体処理の方式の変化に、各地でどのような対応がみられるのだろうか。民俗学の取り組みとしては、1960年代の葬儀と1990年代の葬儀とその間の変遷を追跡した「死・葬送・墓制資料集成」(1998・1999年)による情報収集が比較的早いものであった。それから20年以上が経過する現在、葬儀の変化と地域社会の現状とがどのように展開しているのか。それについて、1)九州、近畿、関東、東北と各地で調査を試みてきた葬儀と墓の変化と地域社会の動向、2)都市部の葬儀社の経営戦略(福岡市)という視点、3)沖縄の葬儀と墓の変化および門中の洗骨習俗の現在、4)瀬戸内の島嶼部(姫島)における集落の状況、5)講中の結束が固くその相互扶助なしの葬儀は考えられないとまでいわれていた広島県西北部の安芸門徒の集落の現状、などをテーマに現地調査に基づく研究発表を行ない、あらためて葬儀と地域社会の現在を、具体的な事例をもとに民俗学的な視点から読み解くこととする。
     なお、今回の発表は、科研基盤B「村落社会の相互扶助の動揺と民俗の維持継承―葬儀変化にみる地域差の存在とその意味―」(2017~2019年度 課題番号:17H02439代表:関沢まゆみ)の成果の一部である。

    第48回研究会「アートの民俗学的転回、民俗学のアート論的転回」

    日 時:2019年12月15日(日)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所大会議室
    コーディネーター:菅豊(東京大学大学院情報学環・学際情報学府)
    司会:塚原伸治(茨城大学人文社会科学部)
    発表者:
     福住廉(美術評論家、東京芸術大学非常勤講師)
      「アートの民俗学的転回」
     菅豊(東京大学)
      「民俗学のアート論的転回」
    コメンテーター:加藤幸治(武蔵野美術大学教養文化・学芸員課程研究室)
        

    趣旨:

     1920年代を中心とする20世紀初頭、民俗的な芸術は重要な課題とされ、注目され、活発に議論されていた。日本の民俗学のアート論を考える上において、この時代は一大画期であり、そこでは制度化された高踏な芸術とは異なって、民俗的な世界に生かされる芸術へのまなざしが立ち現れた。たとえば1910年代には「農民美術運動」、1920年代には「民俗藝術」「民藝」そして「考現学」といった、広義のアートに掛かり合うキーワードが創出され、追究された。それらの対象とする事物や活動は必ずしも相同ではないが、いずれも芸術の民衆性や日常性に注目した点では類似している。
     その後1930年代には、草創期の民俗学で柳田国男も芸術に関心を示し、芸術が「面白い研究課題」であり、その研究が「世界のフオクロア」に対して貢献できると強調した。そして「素人」や「専門家に非ざる百姓」「小学校に入ったばかりの子供」といった「普通人」や「無名の常民」の芸術活動―「野の芸術」―を研究することの意義を訴えた(柳田1934:147-152)。現代アート論においても先駆的である柳田のこの主張は、その後1950年代に、鶴見俊輔の「限界芸術論」に引き継がれたものの、残念なことに民俗学では忘却されてしまった。結果、日本の民俗学は伝統的な民俗芸能や口承文芸には関心をもったものの、芸術を「便宜的・表面的な分類ラベル程度のものでしかなく、内実をもった概念にまで高める必要のないもの」(小松1999:6)として軽視し続けてきた。その状況は現在でも変わらない。
     しかし、アルフレッド・ジェルやティム・インゴルドなどの研究をもち出すまでもなく、近年、人類学的アート研究が活性化しており、また社会学など隣接諸科学でもアートが重要課題となっている。そして海外の民俗学に目を転じれば、英語圏ではfolk art、中国では民間芸術、そしてかつてのドイツではvolkskunstのように、アートの研究ジャンルが画定され、積極的に考究されてきた。さらに翻って日本のアート界を眺望すれば、地域の芸術祭が隆盛するなど、現代美術の重心が前衛的なコンセプチュアル・アートから、「風土」「伝統」といった土着的な民俗文化を求めるものへ移行する「民俗学的転回(Folkloric Turn)」(福住2017:29)を経験しており、アートにとって民俗学的世界は見過ごせない重要課題となってきている。
     このような学術的背景のもと、現代日本の民俗学において芸術=アートという研究ジャンルを再び蘇生させ、その研究の射程に収めることが喫緊の課題となっている。本研究会では民俗学的アート研究を蘇生させるのみならず、未来に向けた多様なアート研究の対象と視座を獲得するために、「民俗学的転回」という用語の提唱者である福住廉氏をお呼びして、アート論と民俗学の対話を促していきたい。具体的には、民俗学的転回とともに、限界芸術論、アウトサイダーアート、ヴァナキュラー・アートなどを取り上げる(文責:菅豊)。
    【参考文献】柳田国男1934『民間伝承論』共立社、小松和彦他編1999『芸術と娯楽の民俗』雄山閣、福住廉2017「民俗学的転回」『美術手帖』2017年12月号(1062号)。

    ※福住廉(ふくずみ れん):美術評論家。1975年生まれ。著書に『今日の限界芸術』、共著に『ビエンナーレの現在』、編著に『佐々木耕成展図録』など。「artscape」、「共同通信」などに寄稿する一方、東京のギャラリーマキで連続企画展「21世紀の限界芸術論」をキュレーション。現在、東京芸術大学、女子美術大学非常勤講師。

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会
    ■無料。事前登録不要です。

    第47回研究会「写真探して4万キロ・米国調査報告会」

    日 時:2019年11月17日(日)14:00~17:00
    会 場:東京大学東洋文化研究所大会議室
    コーディネーター・司会:菅豊(東京大学)
    発表者:佐藤洋一(早稲田大学社会科学総合学術院教授・東京大学東洋文化研究所私学研修員)

    趣旨:

     佐藤洋一氏は、第二次世界大戦後の都市史を専門とし、またヴィジュアル・アーカイヴズやヴァナキュラー写真(Vernacular Photography)に関して造詣が深い。同氏はこれまで、第二次世界大戦後にGHQ関係者などによって日本で撮影された、「公」的な写真等の史料を、主にアメリカで調査研究してきた。そして、同氏は昨年9月からは2回にわたり、アメリカ人による「私」的な写真コレクションに焦点を当て、アメリカ大陸を横断しながら各地の図書館や史料館を訪ね歩き、所蔵された写真を丹念に調査し、複製作業を行ってきた。それは「公」的な記録には出てこない、戦後日本の都市の姿を発掘するための、膨大な基礎作業の一部である。
     この報告会では、約9ヶ月間にわたって全米各地の重要コレクションを周り、数万枚もの写真の履歴を辿り、可能な限り複製した、エキサイティングな今回の調査内容についてご発表いただく。具体的には、「運び屋」的な旅のこと、アメリカにおける史料館での調査のこと、写真史料のこと、「公」的な史料と「私」的な史料の違い、そして同氏の今後の研究の見通しと課題についてお話しいただく予定である(文責:菅豊)。

    ※佐藤洋一(さとう よういち):早稲田大学社会科学総合学術院教授、博士(工学)。主著に『米軍が見た東京1945秋』(洋泉社、2015)、『帝政期のウラジオストク 市街地形成の歴史的研究』(早稲田大学出版部、2011)など。

    ■共催:現代民俗学会、「野の芸術」論研究会(科研「「野の芸術」論―ヴァナキュラー概念を用いた民俗学的アート研究の視座の構築」グループ)、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会

    第46回研究会「現代民俗学は「地域」と「むら」をどう捉えるか-〈共〉の民俗学を考える」

    日 時:2019年11月16日(土)14:00~17:00
    会 場: 成城大学8号館831教室
    コーディネーター:加藤秀雄(成城大学)
    総合司会・趣旨説明:加藤秀雄
    発表者:
     植田今日子(上智大学)
     「『地縁』は構築できるか」
     猪瀬浩平(明治学院大学)
     「しがらみを編みなおす:障害者の地域生活運動の分解と異化」
    コメンテーター:
     金子祥之(跡見学園女子大学)

    参考文献
    ・植田今日子『存続の岐路に立つむら-ダム・災害・限界集落の先に』2016 昭和堂
    ・植田今日子「原発事故と畜産農家の避難:なぜ「避難」が畜産農家の廃業を招くのか」(『環境社会学研究』vol.25, 2019年12月刊行予定)
    ・猪瀬浩平『むらと原発-窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』2015 農文協
    ・猪瀬浩平『分解者たち-見沼たんぼのほとりを生きる』2019 生活書院
    ・わらじの会編『地域と障害-しがらみを編みなおす』2010 現代書館

    趣旨:

     近年、民俗学の研究対象をめぐる議論が活発化しており、本会においても、「日常」や「人」、「ヴァナキュラー」といった新たな研究対象をめぐる理論的検討がなされている。このような動きは、「民俗」や「常民」、「伝承」といった旧来の研究対象が含意する様々な問題点を克服し、新たな民俗学の領域を広げていくための試みとして位置づけられるだろう。
     民俗学の歴史を紐解くと、過去にも研究対象をめぐる議論が活発化した時期があり、1970~1980年代の常民論、都市論などが例として挙げられる。しかし、これらの議論が行われた同時代の民俗学において、最も重要な研究対象となっていったのは、「地域」、あるいは「むら」であった。
     当時の民俗学において「地域」と「むら」は、民俗を保持する伝承母体とみなされ、その再生産を可能とする社会組織や規範のあり方に注目が集まった。そこには、民俗が集団によって維持されるという前提があり、集団の持続と民俗の持続を結びつける思考の存在を看取することができる。
     このような視点による研究は地域民俗学と呼ばれたが、1990年代後半から、その欠点が指摘されはじめるようになる。大きく分けてその批判には、2通りのものがあったと整理できるだろう。1つ目は、地域民俗学が地域と伝承を静態的なものとして描く志向性を持っていた点に向けられており、2つ目は、地域やむらで生きる具体的な人々の生活や語りが捨象されてしまうことに向けられたものである。これらの批判は、近年の新たな研究対象の模索をめぐる動きにも接続されることになる。
     こうした批判を経て、現在の民俗学における地域、むら研究は低調なものとなっており、直近の『日本民俗学』の研究動向号でも、そのことが指摘されている(大野啓 2018「社会-人のつながりと、行動の規制」『日本民俗学』293号)。しかし市川秀之が、2014年の研究動向号で述べるように、社会学や地理学における村落研究は、震災や過疎高齢化などの社会状況を反映して、むしろ活況を呈しているのである(市川秀之 2014「村落」『日本民俗学』277号)。このような他領域と民俗学のズレは、地域とむらに対する問題意識の違いに起因するものだろう。
     このズレを埋め、今後の民俗学における地域、むら研究の方向性を探るのが本研究会の目的だが、その方向性を定めるための補助線として、今回は〈共〉というコンセプトを用意した。〈共〉は多様な存在が地域やむらの中で「共に生きる」ことを指すものであり、それがいかなる意味を持ち、何を生み出してきたのか(いるのか)を考えるためのものである。本研究会では、〈共〉に向き合い、それを描き出す試みを続けている二人の研究者を招いて、その課題と可能性を検討していく。(文責:加藤秀雄)

    第45回研究会「まちをまなざす、まちをかたる―都市をめぐる学際的な対話に向けて―」(終了)

    第45回研究会につきまして、事情により、砂川さんのご発表について延期させていただきます。
    それに伴い、以下のように変更いたします。
    直前で申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

    日 時:2019年10月27日(日)13:30~17:00
    会 場:東京理科大学 神楽坂キャンパス1号館3階136教室
    コーディネーター・趣旨説明:木村周平(筑波大学)
    司会:門田岳久(立教大学)
    発表者
     早川 公(大阪国際大学)
    「『まちづくりのエスノグラフィ』解題」
     三隅貴史(関西学院大学)
    「『まちづくりのエスノグラフィ』を民俗学から読む」
     石榑督和(東京理科大学)
    「『戦後東京の闇市』解題」」
     木村周平
    「『戦後東京の闇市』を文化人類学から読む」

    参考文献
    ・早川 公2018『まちづくりのエスノグラフィ―《つくば》を織り合わせる人類学的実践』春風社
    ・石榑督和2016『戦後東京と闇市:新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会

    趣旨:

     都市は様々な人やモノが行き交い、また集積する場である。農村を主たる対象としてきた民俗学においても、その発展の過程のなかで、都市は重要な研究の場、ないしテーマのひとつとなり、1970年代頃には「都市民俗」や「都市民俗学」という用語が使われるようになった。そこでは、従来の方法論や関心を応用したり、近隣の諸学問の理論を取り込んだりしながら、都市生活者や商工業に関わる人々の口承や都市祭礼、あるいは団地での生活等についての研究が進められた。さらに、1980年代頃からの自治体史編纂事業の増加も、民俗学と都市との関わりを深めるのに寄与した。
     だがそうした動きも、「一過性のブームとして消費されてしまった」というのが民俗学内での一般的な見方である(本学会の第5回研究会「「都市」の収穫を問い直す」(2010年3月開催)趣旨文より)。小池淳一も都市民俗学の蓄積を振り返り、現代的とされる諸事象を民俗学の研究対象とするうえで、もはや「都市」というカテゴリーを用いることの意義が失われてしまった、と論じる(「都市民俗学はどこへいったのか」『国立歴史民俗博物館研究報告』第199 集、2015年)。だとすれば、人口がますます都市に集まりつつあり、都市に取り組む意味も大きいはずの現在、民俗学から「都市」を語ることは難しい、と言わざるをえないのだろうか。
     思えば都市は、都市史・建築史、社会学、文化人類学、文学など様々な学問と関心が重なり合う場であり、これまでも相互に影響を与え合ってきた。こうしたことを考えるのであれば、現在進行形の都市研究を追求するには、民俗学内部の蓄積や可能性を見つめ直すことに加え、その周囲に目を向け、学際的な対話を通じて展望を開く、ということにも意義があるのではないだろうか。
     本研究会は、これまでの蓄積を踏まえつつも、学際的な対話を行い、展望を開くことを試みたい。そのために「都市(まち)」をテーマした二つの著作を取り上げ、民俗学・文化人類学・都市史のまなざしや方法論の差異や共通性、取り組むべき論点や協働の可能性について議論したい。(文責:木村周平)

    第44回研究会 民俗学的「差別」研究の可能性ー「日常」からのアプローチー(終了)

    日 時: 2019年8月25日(日)13:30~17:00
    会 場: 成城大学3号館321教室

    趣旨説明:
     今野大輔(成城大学民俗学研究所)
    発表者:
     入山頌(障害をこえてともに自立する会)
     「「路地」で暮らすために-東京都国立市公民館コーヒーハウスにおける「障害」と「青年」-(仮)」
     岡田伊代(荒川区立荒川ふるさと文化館)
     「皮革産業は「部落産業」でしかないのか-東京都墨田区の皮鞣し業を事例とした再検討-」
     辻本侑生(民間企業勤務)
     「いかにして男性同性愛は「当たり前」でなくなったのか-近現代鹿児島の事例分析-」
    コメント:
     川松あかり(東京大学大学院)
     桜木真理子(大阪大学大学院、日本学術振興会)
    総合司会:
     及川祥平(成城大学文芸学部)
    コーディネーター:
     及川祥平・辻本侑生

    趣旨:

     誤解を恐れずに言えば、民俗学者が接するあらゆるフィールドや資料には、何らかの「差別」が包含されている。そういった意味では、民俗学における「差別」とは、関心がある研究者のみが取り組む個別の研究トピックではなく、人びとの複雑かつ多様な日常を描き出すための切り口となりうるのではないだろうか。
    これまでの民俗学や隣接分野(社会学・人類学)は、差別を受けてきたマイノリティについて、エスノグラフィックな成果を蓄積してきた。これらの成果は差別の被害を受けてきた人びとの生の声を記録・公表してきた点において非常に重要な意義を有するが、差別を加えてきた側の人びとについて捉えていないという課題を残している。差別が関係性の中で立ち現れるものであることを踏まえると、「差別される側」に限らず「差別する側」を含めた多様なアクターの関係性に着目し、その中でどのように差別が立ち現れているかを明らかにする視角が要請されるが(例えば、吉田早悠里2014『誰が差別をつくるのか エチオピアに生きるカファとマンジョの関係誌』春風社)、こうした視角に基づく研究は民俗学においてほとんど蓄積されていない。
     以上のような課題を解決するためには、近年の民俗学において議論されている「日常」という視点が有用であろう。生活事象や慣習的思考法の変遷を記述することに長けている民俗学において、「日常」という視点は、普段の生活において自明視されている観念・感覚を問題化し、新規な文化事象が「当たり前」化していく様態、「当たり前」であった何かがそうではなくなっていく様態を把捉することができる(岩本通弥2015「“当たり前”と“生活疑問”と“日常”」『日常と文化』1)。この「日常」という視点から差別生成のプロセスを把握することは、民俗学における喫緊の課題であると考えられる。
     本研究会では、この「日常」という視点を意識した三つの具体的な事例研究を提示した上で、議論を行いたい。まず、岡田は、東京都の皮革産業地帯におけるフィールドワークから、部落差別研究に偏ったこれまでの民俗学のフレーミングの歪みと問題点を明らかにし、皮革産業に従事する人びとの日常性に向き合う必要性を指摘する。辻本は、岡田とは反対に、民俗学が差別研究の対象として取り上げてこなかった性的マイノリティに着目し、近現代の鹿児島県を対象とした歴史分析から、日常における性的マイノリティ差別の成立プロセスを明らかにすることを試みる。最後に、入山は、東京都国立市の「コーヒーハウス」における障がいのある人と市民が場を共有する実践への参与経験から、「健常者」と「障がい者」という枠組みに回収されない暮らしの可能性について模索する。
     現代民俗学会では、2014年3月に「社会的排除に民俗学はいかに向き合えるのか」と題した研究会を開催し、民俗学という学問が差別や社会的排除の日常性を捉える可能性を十分に有していることを確認した(及川祥平2015「差別と排除の日常性を記述するために(コーディネーター報告)」『現代民俗学研究』7)。今回の研究会は5年前の研究会の成果を活かしつつ、「民俗学は差別問題にもっと取り組むべきである」というスローガンを超え、フィールドや資料に即した具体的な事例研究に基づいて議論を深化させることを目指している。(文責・及川祥平・辻本侑生)

    第43回研究会(終了)ヴァナキュラー文化研究の輪郭線―野生の文化を考える、野生の学問を考える―

    ポスター 日 時: 2018年9月16日(日)13:00~18:00
    会 場:東京大学東洋文化研究所大会議室


    イントロダクション:
     菅豊(東京大学)
     「導入・ヴァナキュラー文化研究―多義的で曖昧でふくよかな概念の輪郭線―」
    発表1:
     小長谷英代(早稲田大学)
     「ヴァナキュラーの視点とその意義」
    発表2:
     ウェルズ恵子(立命館大学)
     「ヴァナキュラー文学の研究方法―『ヴァナキュラー文化と現代社会』のエッセンスと主張」
    コーディネーター:
     菅豊

    趣旨:

      「ヴァナキュラー(vernacular)」とは、元来、土地固有の土着的な地方語、話し言葉、日常語を形容する言葉として使用されていたが、ここ数十年のあいだ、種々の人文・社会科学でその語義を拡大し、現代文化論における、より魅力あるキーワードとして発展させてきている。それは民俗学においても同様である。
     小長谷英代は、「『ヴァナキュラー』は、今日の文化研究において、軽視できない関心や問題を含み、民俗学の新たな方向性を探る一つのキーワードとなっている」(小長谷 2017:28)としている。そして、その語をめぐって「言語と土着性の意味に加えて、権力、近代、人種、階級から、個人や集団の創造性、さらに研究者の位置性や政策に関わる問題等、きわめて多様なテーマが関わり、『文化』への関心を捉えているのである」ことを主張している。
     少々乱暴にいうならば、ヴァナキュラーという語には、文字に対する口頭、普遍に対する土着、中央に対する地方、権力に対する反権力、権威に対する反権威、正統に対する異端、オフィシャルに対するアンオフィシャル、フォーマルに対するインフォーマル、ハイに対するロー、パブリック(公)に対するプライベート(私)、プロフェッショナルに対するアマチュア、エリートに対する非エリート、マジョリティに対するマイノリティ、不特定多数に対する集団、集団に対する個人、高踏に対する世俗、市場に対する反市場、非日常に対する日常、仕事に対する趣味、他律に対する自律、意識に対する無意識、洗練に対する野卑、教育に対する独学、テクノロジーに対する手仕事などなど、実に多様な含意を込めることが可能である。もちろん、このような単純な二項対立ではっきりと腑分けできるものではなく、実際はその対立の境界が溶融しているところでアクティブに蠢いている語ととらえるべきであろう。そのため、未だにvernacularという語に対する日本語での定訳はない。私があえてその語を翻訳するならば、「野」に「生きる」という意味での「野生」、あるいは「野性」と訳すであろう。
     ここで重要なのは、従来、民俗学で用いられてきた民俗(folklore)や民俗文化(folk culture)、伝統文化(traditional culture)、あるいは大衆文化(popular culture、pop culture)といったスティグマが与えられた語を使用する研究とは異なる射程、あるいは異なる位相の研究を、ヴァナキュラーという語を使用することにより展開しようという意欲的な目標が掲げられていることである。それは旧来使用されてきたテクニカルタームの単なる言い換えではなく、それらでは掬い取られなかった現象や思考を、従来とは異なった方法で掬い取ろうとする新たな挑戦でもある。そして、この挑戦に成功するか否かが、この用語の使用価値の存否―要するにvernacularという言葉を使用する意義があるのか、ないのか―を決定づける。
     本研究会では、「野生の学問」である民俗学の新たな転回に資するヴァナキュラーという概念と、その語によって括り取られる文化=ヴァナキュラー文化の研究意義と可能性を展望する。(文責:菅豊)


    イントロダクション:菅豊(東京大学)
    「導入・ヴァナキュラー文化研究―多義的で曖昧でふくよかな概念の輪郭線―」
     近年、日本の民俗学、あるいはそれを取り巻く学術世界で、ヴァナキュラーという用語・概念が注目されつつある(小長谷英代 2016「「ヴァナキュラー」―民俗学の超領域的視点」『日本民俗学』285、島村恭則2017「民俗学(Vernacular Studies)とは何か」[http://history-memory.kwansei.ac.jp/pdf/170911_01.pdf]、ウェルズ恵子編2018『ヴァナキュラー文化と現代社会』思文閣出版など)。アメリカ民俗学において、すでに重要なキーワードとなっているこの語(Richard Bauman 2008 “The Philology of the Vernacular” Journal of Folklore Research 45-1)の、多義的で曖昧で、しかし、ふくよかな、いくつかの定義を提示することによりその概念の輪郭線を導き出し、小長谷英代・ウェルズ恵子との議論へとつないでいく。

    発表1:小長谷英代(早稲田大学)
    「ヴァナキュラーの視点とその意義」
     vernacularが学術語として微妙な重みを含むようになったのは、比較的近年のことである。そのつかみどころのなさを問うことに意義がある。しかし、日本では文化人類学系・民俗学系の邦訳書でも「俗語」、「土着の」、「現地語」等の語に訳され、この語に喚起される複雑な意味や問題意識が見逃されてきた。では、vernacularとは何なのか、なぜ、どのような意義を帯びるようになっているのか? 本発表では、あらためてvernacularの文脈を問い、そこに提起される文化への新たな視点とその意義を考えていく。

    発表2:ウェルズ恵子(立命館大学)
    「ヴァナキュラー文学の研究方法―『ヴァナキュラー文化と現代社会』のエッセンスと主張」
     ヴァナキュラー文化研究という学際的研究分野を提唱し、有効な研究例をヴァリエーションをつけて示すことを目的として、今年『ヴァナキュラー文化と現代社会』(思文閣出版)を編集出版した。本発表ではまず、「ヴァナキュラー文化」および、ヴァナキュラー文化研究を私がどう捉えているかを、本書編集の基本方針を通して述べたい。本書は三部構成(I.生成・創造/ II. 伝承・変容/ III. 拡散・再生)で、私自身は研究例として各部に論文を出している。そこで、本発表ではさらに、アプローチを異にする各論文の意図や研究方法を、本書の構成意義と絡めつつ、文学・文化研究者の立場から説明したい。加えて、異なる学問分野で関心の持ち方も異なる研究者をつなぐ糸としての「ヴァナキュラー」という用語が、どう効果的に機能するかや、現代社会と学術研究をつなぐ糸としても働く概念であることを述べられればと思う。


    共催:パブリック・ヒストリー研究会(科研「パブリック・ヒストリー構築のための歴史実践に関する基礎的研究」グループ)、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会

    第42回研究会(終了)「憑きもの」研究の現代的可能性を探る

    日 時: 2018年8月4日(土)14:00~17:30
    会 場: 神戸大学 鶴甲第一キャンパスE棟4階大会議室

    報告1:
     酒井貴広(早稲田大学)
     「憑きもの研究と地域社会の関わり―高知県幡多地方の「犬神」を巡って」
    報告2:
     香川雅信(兵庫県立歴史博物館)
     「『憑きもの』研究から『妖怪』研究へ」
    報告3:
     土取俊輝(神戸大学大学院、四天王寺大学非常勤講師)
     「「憑きもの」は本当にいなくなったか」
    コメント:
     梅屋潔(神戸大学)
    コーディネーター:
     梅屋潔・島村恭則(関西学院大学)


    趣旨:

      かつて「憑きもの」の研究は、民俗学の看板、とはいわないまでも、人気のあるトピックのひとつだった。当時出版された民俗学の教科書のいくつかには「憑きもの」に関して章が割かれていた。しかし、今日では、かつてのようには「憑きもの」を研究する研究者の数は減っている。自らの研究テーマとして「憑きもの」と記載する研究者はおそらくは数名だろう。小松和彦が「憑霊信仰」の用語を用い始めて「憑きもの筋」研究の批判をしたこと、また、そのテーマの発展的解消とその結果生じた悪霊・妖怪研究・異人論などの相対的に新しい研究テーマの展開とともに、次第に衰退した印象がある。しかしながら、現在では、かつての「憑きもの」の要素が現代的な巡礼ブームの下敷きになっていると考えるものもいれば、かつての「憑きもの」研究は一時的に80年代の世界の妖術・邪術研究の理論的枠組みを先取りしていたと指摘する者もいる。果たして「憑きもの」は、現代ではとるに足らないテーマなのだろうか。あるいはまだ検討する余地のある可能性が残るテーマなのだろうか。あるいは、流行でこそないものの、豊かな可能性を秘めたジャンル足りうるのだろうか。
     この研究会では、「憑きもの」研究の最前線にいた香川雅信氏と、現在もなお「憑きもの」研究にこだわる酒井貴広氏と、その研究の入り口で「憑きもの」研究を志した土取俊輝氏を中心に、「憑きもの」研究の現代的な可能性を探ろうとする。香川雅信氏は、「憑きもの」研究から、妖怪研究にシフトして現在は妖怪研究を主な研究テーマとして研究を進めている。酒井貴広氏は、高知県でのフィールドワークを通して、「憑きもの」の一種である「犬神」観の変容や、「憑きもの筋」の学術的研究が現地の人々に与えた影響等について明らかにするなど、現在も「憑きもの」研究を継続的に行っている。土取俊輝氏は、1990年代という比較的新しい時期に「憑きもの」についての言説が報告されている、新潟県佐渡市で調査を行っており、現象としての「憑きもの」は衰退したととらえ、「憑きもの」を研究の中心にすえてはいないが、調査地に「憑きもの」に類する報告があった地域を選ぶなど、「憑きもの」研究の可能性への関心は維持している。この三名の報告に加えて、コーディネーターの一人である梅屋が議論に参加し、「憑きもの」研究の可能性を検討するのがこの研究会の目的である。

    報告1:酒井貴広(早稲田大学)
    「憑きもの研究と地域社会の関わり―高知県幡多地方の「犬神」を巡って」
     発表者は、高知県下で今なお語られる民俗事象「犬神」の研究を遂行してきた。先行研究における犬神は、西日本で広く語られる憑きもの筋の一種とされている。地域社会における憑きもの筋の言説は、周囲の人々から憑きもの筋に「されてしまう」特定の家筋へ不利益をもたらす社会問題を発生させており、憑きもの筋研究の多くがこの問題への対処という実践的志向を孕んでいた。しかし、憑きもの研究(特に憑きもの筋研究)が地域社会に及ぼした影響について、これまで議論されることは少なかった。
     本発表では、高知県西部の幡多地方――かつて民俗学者や文化人類学者が積極的に調査した地域でもある――における「犬神」の現況を提示するとともに、地域社会の言説やインフォーマントの語りに憑きもの研究の言説がいかに影響したのかを考察する。この試みは、マス・メディアが発達しアカデミズムの言説と生活世界の言説が急速に近付きつつある現代社会における、民俗学者の研究と成果発信の在り方を模索するものでもある。

    報告2:香川雅信(兵庫県立歴史博物館)
    「『憑きもの』研究から『妖怪』研究へ」
     今からもう四半世紀以上前の平成3年(1991)、「憑きもの信仰」に関する論文を執筆するために、私は徳島県のある町で「犬神」と呼ばれる憑きものについての聞き取り調査をおこなった。そこで私が出会った事例は、それまで私が憑きものに関して持っていたイメージを大きく覆すものだった。
     第一に、「犬神」を一種の動物霊と見なすような語りに出会うことは一度もなく、柳田國男や石塚尊俊が試みたように、憑きものを日本古来の動物信仰と結びつけて論じる方向性は最初から閉じられていた。また「犬神」が富の盛衰とかかわるという話を耳にすることもなく、速水保孝や小松和彦が試みたように、憑きものを共同体における富のあり方や社会経済史的な視点から解釈する可能性も開かれることはなかった。吉田禎吾らが試みた、共同体社会における「機能」から憑きもの信仰の意義を説くことも、あまりに予定調和の議論に思えて到底与することはできなかった。
     一方で、「犬神に憑かれると学校行かんようになる」という語りに巡り合ったことで、二つの方向性が開かれた。一つは、個人の災いを共同体内の特定の誰か(犬神筋)と関係づける「物語」を紡ぎあげるための「概念」として「犬神」を捉えること、もう一つは、共同体における社会構造の変化と、その中での「学校」の持つ意味について考えること、である。第1のものは、その後取り組んだ「妖怪」研究のなかで重要な意味を持つようになり、第2のものは、今後の「憑きもの」研究を意義づける視点に繋がってくるように思われる。本発表では、私の民俗学的研究の出発点となった「憑きもの」研究から、現在の「妖怪」研究に至る思考の遍歴についてお話ししたいと思う。

    報告3:土取俊輝(神戸大学大学院、四天王寺大学非常勤講師)
    「「憑きもの」は本当にいなくなったか」
     1950年代~70年代にかけて、民俗学、人類学において盛んに研究されていた「憑きもの」現象は、高度経済成長期以降の都市化、近代化による影響をうけて、その力を弱めていき、消滅していったとされている[小松 2000]。しかし、新潟県佐渡市の村落では1980年代後半~1990年代前半という比較的新しい時期に、「憑きもの」信仰の一種であると考えられるムジナ信仰が観察、報告されていた。「憑きもの」信仰に関心のあった発表者は、2013年に先行研究で報告されていた新潟県佐渡市北部の村落を訪れ、追調査を行った。だが、先行研究と比較すると、ムジナについての人々の信念・実践は保持されていないようであった。現地の人々の主観としても、「かつてと比べて今の人は信仰が厚くない」という現地の人々の語りが収集された。「憑きもの」は本当にいなくなってしまったのだろうか。
     本発表では、これまでの「憑きもの」信仰の研究がどのような動機で行われたのか、何を研究対象としていたのか、などといったことを振り返りながら、「憑きもの」が本当にいなくなってしまったのかどうかを検討することとしたい。


    共催:神戸人類学研究会、神戸大学国際文化学研究科国際文化学研究推進センター

    第41回研究会(終了)ジェンダー・セクシュアリティからみる近現代―民俗学と歴史学の視点から―

    日 時: 2018年4月30日(月)14:00~17:30
    会 場: 成城大学図書館地下2階AVホール

    趣旨説明:
     菊田祥子(成城大学大学院博士課程後期)
    発表者:
     菊田祥子
     「日本都市の祭礼・祝祭にみるジェンダー・セクシュアリティ」
     小泉友則(立命館大学非常勤講師)
     「女児の性的早熟論と植民地主義・帝国主義―利用される女児のジェンダー・セクシュアリティ―」
    コメント:
     靏理恵子(跡見学園女子大学)

    司会:
     髙木まどか(成城大学大学院博士課程後期)
    コーディネーター:
     高木まどか・菊田祥子


    趣旨:

     日本民俗学は、人文社会科学領域において女性の生に真っ先に着目した学問であった。したがって、女性の生活にかかる研究は、民俗学の揺籃期から現在に至るまでの間に非常に多く緻密に蓄積されている。しかし、「分析視角としてのジェンダー」を意識した研究は、2000年代中盤から増え始めたばかりである。セクシュアリティに触れる研究についても同様の傾向がみられる。セクシュアリティについても、赤松啓介以来の研究蓄積があるが、正面から扱ってきたものはさほど多くない。すなわち、ジェンダー・セクシュアリティを鍵概念とした研究は、両者とも、民俗学で今後発展していく可能性が高い研究領域であろう。さらに、ジェンダー・セクシュアリティを関連付けて捉えようとする研究も、将来進展することが大いに考えられる。
     以上の問題意識を前提に、本研究会では、日本の近現代におけるジェンダー・セクシュアリティを鑑みる目的で、2名の発表を中心に議論をしたい。
     菊田祥子氏は都市祭礼・祝祭の先行研究群におけるジェンダー・セクシュアリティに着目し、今後の展望を示す。都市祭礼・祝祭は、当該地域における権力構造や価値観が、日常の場以上に濃縮されて現れる時空間である。各先行事例および菊田氏の調査結果から析出されるジェンダー・セクシュアリティ規範は、日本全国を射程とした各中間地域におけるそれらの規範を帰納する一助となるであろう。
     小泉友則氏は歴史学の立場から、日本の近世後期から明治後期には、特定の条件を満たす環境に身を置く地域の女児が、性的に早熟することがあるとする「女児の性的早熟論」と呼ぶべきものが医学者を中心に主張されていたことに着目する。小泉氏は、その主張が時代変遷の中で、「野蛮」国や「未開」国のもつ環境が女児の性的早熟を引き起こすという帝国主義的な主張へと変容していく様子を記述し、男児ではなく女児というジェンダーが国際政治上の指標として扱われていく様子を明らかにする。その上で、そのような主張は現代にまで影響していることを示す。小泉氏の発表は、ジェンダー・セクシュアリティの両概念を明白に架橋する。
     本研究会は、日本民俗学における「「女性化」したジェンダー概念」の問題にも一石を投じる。「ジェンダーの構築性や権力の生成過程が「女」という性に限定されるわけではないこと、ジェンダー研究がフェミニズム思想と決別可能であること」を、2名の発表および、男性である小泉氏の立場性から明確にしうるであろう。(文責:菊田祥子)


    共催:女性民俗学研究会

    第40回研究会(終了) 「競い」の光景―祭礼・芸能・スポーツ研究を展望する

    日 時: 2017年12月17日(日)14:00~17:30
    会 場: 早稲田大学早稲田キャンパス3号館304教室

    発表者:
     伊藤純(早稲田大学人間総合研究センター)
     「「競い」にみる祭芸分離の諸相」
     中里亮平(長野大学非常勤講師)
     「綱引きからみるスポーツと民俗の間」
     田邊元(富山大学芸術文化学部)
     「「技法の復興」を目指す人々」
    コメント:
     阿南透(江戸川大学社会学部)
    コーディネーター:
     伊藤純



    趣旨:

     祭礼や芸能・スポーツにおける「競い」の光景は、 時として見る者を魅了し、「競い」 の当事者たちの社会的背景を見る者に想像させる。それは「 彼らは何故、あれほどに熱狂しているのだろうか」 という他者理解への素朴な問いの姿でもある。もっとも、 ここで示す「競い」とは、派手で大掛かりなものだけでない。 日常生活で醸成されたライバリティが発露する場合や、 一見すると見過ごされがちな「競い」の場面もある。あるいは、 思いがけないきっかけで祭礼や芸能が開かれ、「競い」 の仕組みが形成されることもあるだろう。 こうした様々な局面で表れる「競い」 の事象に民俗学は長らく関心を寄せてきた。
     「競い」に注目することは、 おもに次のような問題群において考察の有効性が認められよう。 第一に「競い」によって引き起こされる祭礼や芸能の競技化・ ゲーム化・共同体化といった変化の構造について。第二に真正性、 巧拙、審美、楽しみ、ウチ/ソトの基準といった「競い」 の場面で露わになる社会的感性について。第三には「競い」 を引き起こす社会制度や地域経済、コマーシャリズム、 プロフェッショナリズムなど社会的要因について。第四には「 競い」の場において異なるグループを行き来し、 立ち振る舞いながら調査・ 研究を行う民俗学者じしんのポジショナリティについてである。
     そこで本研究会では、芸能研究の立場から伊藤純氏が「芸の技巧化によって開かれるネットワ ーク」について、祭礼研究の立場から中里亮平氏が「綱引きからみるスポーツと民俗の間」について、スポーツ人類学の立場から田邊元氏が「技法の「復興」を巡る実践」について報告し、 阿南透氏を交えて討議する。これまで「競い」 について注目してきた祭礼・芸能・ スポーツ研究のそれぞれの論点を見直し、 さらに事例をもとに芸能・祭礼・スポーツ研究の可能性と問題点、 今後の展望について議論する場としたい。 (文責:伊藤)

    伊藤純(早稲田大学人間総合研究センター)
    「「競い」にみる祭芸分離の諸相」
     民俗芸能では、集団への加入とともに先輩らの芸を学習・修練し、また近隣の芸能や類似の芸能どうしの交流のなかで、求め/求められる芸を体得していく。換言すれば、芸能の身体伝承とは彼我の芸の交渉のなかで作り上げられていくともいえる。こうした芸の形成過程において、度々あらわれる競いの局面は自らの芸を省みる絶好の機会といえよう。
     本報告では、舞台芸術として市民権を得た和太鼓文化との接触を機に、ネットワーク的にその芸が広がった民俗芸能を事例とする。従来の祭の原理とは異なる「競い」の場に立ち、集団内・集団間で相関的に芸の巧拙が生じていく過程について考察していく。

    中里亮平(長野大学非常勤講師)
    「綱引きからみるスポーツと民俗の間」
     なぜ、スポーツ社会学やスポーツ人類学という研究分野は存在するが、スポーツ民俗学という研究分野は存在しないのか。その理由については様々な解釈が存在するが、本発表では同じく近代に見出された概念である民俗とスポーツの差異から、民俗とは何だったのかという問いについて再考する。
     事例として取り上げるのは、綱引きである。綱引きは、祭礼などで行われる民俗行事としての綱引きとスポーツとしての競技綱引きが共存している点で、この問題について考える際に恰好の題材である。勝敗を巡って明確な形で競い合う点では同一でありながら、その勝敗の基準や様式などにおいて異質である2つの綱引きの差異から、競い合うことからみえる民俗について考察したい。

    田邊元(富山大学芸術文化学部)
    「「技法の復興」を目指す人々」
     我々が身近に親しむ、いわゆる「スポーツ」は近代に誕生したものである。「競技」として行われる今日のスポーツの在り様は、時として「スポーツ化」とされ批判の対象にもなる。その代表的な種目が武道である。武道は、自らの在り方として競技的に行われることを時に否定し、今日に至っている。
     本報告では、今日では民俗芸能として行われる武術を対象に報告を行う。その担い手たちは、「スポーツ化」し競うような武道の姿を否定的に考え、そうではない姿を思い描き、失われた技法の「復興」を目指す。このような「復興」において承認される技法を通じて、「競う」・「競争」といった現象を逆照射し、考察していく。


    共催:科研費基盤研究(C)「都市祭礼における「競技化」の民俗学的研究」(研究代表者:阿南 透)

    第39回研究会(終了) 戦う身体の民俗学

    ポスター 日 時: 2017年9月30日(土)13:00~16:45
    会 場: 埼玉県立歴史と民俗の博物館 講堂・講座室

    発表者:
     中里亮平(長野大学非常勤講師)
     「たたかう祭礼―非日常における身体と正しい振る舞い―」
     池本淳一(松山大学准教授)
     「どこで、誰と、どこまで戦うか?―『戦う身体』の日中比較―」
     清水亮(東京大学大学院)
     「兵士の身体の解放と統御―戦前期土浦の盛り場における暴力に着目して―」
    コメンテーター:
     戸邉優美(埼玉県立歴史と民俗の博物館)
    司会・コーディネーター:
     鈴木洋平(埼玉県立歴史と民俗の博物館)



    趣旨:

    本研究会では、民俗学が主たる対象として取り上げてきた日常の境界線上にある「戦う」という文脈から、人々が身体を通じて身に着ける行為について検討する。
     地域社会や環境への適応をする中で、よりふさわしい行動を取っていくプロセスについて、民俗学では人生儀礼をはじめとして研究を積み重ねてきた。一方で、ときに非日常とされる状況にあっても、人々は何らかの形での適応を必要とする。特に、戦うこと、勝利を通じて生き残ることが必要とされる状況下においては、あるべき振る舞いを身に着けるというプロセスが非日常的な文脈においても重視されていたと考えられる。「適応する身体」について、「たたかう」という文脈から考えてみたい。
     千葉徳爾は、仮定した人と動物との「たたかい」の要素として、
      ①一対一の対等の形
      ②双方の肉体的、精神的な全力をあげてたたかい
      ③一方が完全に再起し得ないか死ぬまで行う
    などを挙げている。千葉の問題意識は、集団の勝利を目指す「いくさ」とは異なる原理で動く「たたかい」の要素が軍隊組織でも維持されていたことと、近代戦との齟齬により生じる問題にあった。今回は千葉の試みを、「たたかい」という原理を身に着ける人々の身体に軸を置いて考えたい。
     「たたかい」に適した振る舞いを身に着けるとは、日常とは異なる身体動作を自らに課すこととなる。近代以前の文脈から、個別に経験されるものとしての「たたかい」に身体が接近する場として、喧嘩や武道などといった要素が挙げられる。生命を賭してたたかう側面と、日常を逸脱しないために「たたかい」の中で死者を出さないことや、たたかいを見る観客の存在は、どのようにバランスが取られてきたのか。個人の身体と、それを受容する社会との関係性と検討したい。
     さらには、必ずしも個としての「たたかい」を必要とされない現代状況において、「たたかい」を身体化するプロセスとはどのようなものか。また、近代以降の日本において「たたかい」における振る舞いは、社会的な立場として存在する「たたかい」を目的とした職業的身体として、兵士などに表わされてきた。近代において「たたかい」あるいは「いくさ」という非日常的行為を職業化した存在である「兵士」は、地域社会にどのような影響をもたらしたのか。日常から切り離された「いくさ」の文脈中に構築された身体は、日常世界に何をもたらすのか。兵士の身体技法を身に着けて日常に回帰する人々は、地域にどのような影響を与えたのか。
     本研究会では、日常につながりながら、異なる身体のあり方へと適応していこうとする人々が、状況の間でどう立ち振る舞い、自らの身体、あるいは他者の存在へと向き合っていくかに注目する。ときに自ら踏み込んでいき、ときに否応なくかかわらざるを得ない状況として現れる、「たたかい」の諸相を、身体という要素を媒介にすることで、日常とのつながりを含めて検討したい。
     なお、本研究会では木刀制作・販売を行う粋陽堂の協賛により、講堂に隣接する講座室内にて木刀展示を行う予定である。展示する木刀の多くは販売品であるが、粋陽堂側の方針により手に取ることが可能である。木刀は、近代以降に日常化した「たたかい」の中で、身体と武器の間で身体を延長させるものとしてとらえることができる。木刀展示を通じ、実際に各種の木刀に触れることで、多様な木刀が存在する意義と、実際の刀に対する意識との関係性につき体感を通した思考のきっかけとすることを目的としている。

    協賛:
     粋陽堂(木刀制作・販売)

    第38回研究会(予告) 東アフリカ・ウガンダのフォークロアと文化遺産―文化遺産として承認されるフォークロア/承認されないフォークロア―

    日 時: 2017年9月2日(土)14:30~17:00(予定)
    会 場: 神戸大学国際文化学研究科(鶴甲第1キャンパス)中会議室A403

    発表者:
     プリンス・ジョセフ・ムロンド(サー・エドワード・サファリ・リミテッド)
     「カスビの墓の復興現状と世界遺産指定から得たもの/そこなわれうるもの」
    マイケル・オロカ=オボ(ワールド・ヴィジョン・ウガンダ)+ 梅屋潔 (神戸大学)  
     「パドラにおけるウィッチクラフトと呪詛―決して保護されることのない伝統的無形文化」

    プログラム:
  • 14:30~14:40 趣旨説明:梅屋潔(神戸大学)
  • 14:40~15:20 報告1:プリンス・ジョセフ・ムロンド(サー・エドワード・サファリ・リミテッド)
  •   「カスビの墓の復興現状と世界遺産指定から得たもの/そこなわれうるもの」
  • 15:20~16:00 報告2:マイケル・オロカ=オボ(ワールド・ヴィジョン・ウガンダ)+ 梅屋潔 (神戸大学)
  •   「パドラにおけるウィッチクラフトと呪詛―決して保護されることのない伝統的無形文化」
  • 16:00~16:15 休憩)
  • 16:15~16:30 コメント:島村恭則(関西学院大学)
  • 16:30~17:00 総合討論

  • コーディネーター:梅屋 潔

  • 趣旨:

     東アフリカのフォークロア研究は、人類学、社会学などと連携しつつ複雑な経緯をたどっている。とくに人類学は植民地主義との関連で批判され、フォークロアに看板を掛け代えている場合すらある。
     今回は、アフリカのフォークロアの現状を鑑みる目的で、対照的な二人のスピーカーを中心に議論をしたい。
     ひとりは、ウガンダの危機に瀕した世界遺産の管理に深くかかわり、ブガンダ博物館の再建に力を注ぐプリンス・ジョセフ・ムロンドである。カスビの墓は、世界遺産の一つとして現在再興が急がれているが、ここにはUNESCO、JICAをはじめとする海外のエージェント、その間をとりもつ責任者、カバカ(ブガンダ国王)、王国内のカティキロ(総理大臣)、ナリニャ(王女)などの戦略も交錯し、複雑な現状がある。そのことを紹介しつつ、生活者や王国当事者としての実感をフォークロア研究との関係で議論したい。
     もうひとりは、王国も形成していなかったが、現政権の1997年になってユニオンを形成し、パラマウント・チーフを新たに王国に準ずるユニオンとして設立したルオ系の民族アドラ(Jopadhola)の紹介者としてマイケル・オロカ=オボ氏に、こうしたユニオン設立にともなって公共性を要求されるプロセスで取りこぼされるものの典型である「呪詛」の観念について報告してもらい、隠されるフォークロアとして、ブガンダ王国の対比から議論をすすめていきたいと思う。

    使用言語:英語 抄訳の通訳あり。
    共催:神戸人類学研究会・神戸大学国際文化学研究推進センター

    第37回研究会(終了)今だからこそ議論する「被災地で民俗学が考えるべきこと」

    日 時: 2017年3月4日(土)13:30~
    会 場:東北学院大学土樋キャンパス8号館841教室

    プログラム:
    13:30~13:40 趣旨説明:政岡伸洋(東北学院大学)
    13:40~14:20 報告1:小谷竜介(東北歴史博物館)
        「宮城県雄勝地域の神楽と地域社会」
    14:20~15:00 報告2:加藤幸治(東北学院大学)
        「震災6年目の牡鹿半島と「復興キュレーション」」
    15:00~15:15 休憩
    15:15~15:55 報告3:政岡伸洋(東北学院大学)
        「被災地の動きから何が見えてきたのか―宮城県本吉郡南三陸町戸倉波伝谷の事例から―」
    15:55~16:15 コメント:金子祥之(日本学術振興会特別研究員PD(立教大学))
    16:15~16:30 休憩・会場設営
    16:30~17:30 ディスカッション
    司会:政岡伸洋
    コーディネーター:政岡伸洋




    趣旨:

     2011年3月11日に発生した東日本大震災では、太平洋沿岸に津波が襲い、死者・行方不明者18,455人(2016年3月10日現在)、そこに福島第一原発事故も発生し、暮らしの基盤が完全に破壊されるなど、甚大な被害がもたらされた。特に、津波や原発事故は、その映像がリアルタイムで流されたこともあり、世界に衝撃を与えた。
     また、今回の震災では、民俗というものが注目を集めた点も指摘できる。特に、がれきも片付けられていない状況の中で、次々と祭りや民俗芸能が復活し、「民俗の力」「コミュニティの強い結びつきが震災を乗り越えた」として、震災前との連続性を強調する形で、マスコミ等でも数多く取り上げられた。
     ところで、民俗学およびその周辺諸科学は、このような東日本大震災をめぐるさまざまな現象に対し、いかに向き合ったのか。まず最初にあげられるのが、被害の状況をとりあえずインタビューし、記録に残そうとするものである。震災直後にみられたが、その多くはこれまでの災害などを対象とした研究を踏まえ、何か目的を持って調査したというより、何でもよいから目の前に起こるものを記録していくという傾向が顕著であった。
     また、津波によって近代的な建造物が次々と破壊され、原子力発電所でも事故が発生するなど、自然の驚異を克服し便利で快適な暮らしを確立したと信じていた現代の暮らしが、そうではなかったことに衝撃を受け、人間の力の限界などを主張する研究も多い。このような主張は、阪神・淡路大震災においてもみられたが、注意すべき点として、特定の地域を対象に、暮らしを総体的にとらえ、詳細な事例分析に基づくような、一般的な民俗学の方法によって導かれたものではなく、印象論的な面が強く、注意が必要である。
     一方、今回の震災では、その直後から、学問が被災地に対してどのような貢献ができるのかが問われたが、特に民俗学では文化財レスキューが注目を集めた。がれきの中から文化財を救出して行く姿はマスコミ等でも数多く取り上げられ、民俗学が被災地にいかに向き合うべきかという点に対して、その主たる方法として定着したように思われる。たしかに、非常に意味ある活動だといえるが、ここで注意すべきは、これらはあくまで地域を表象するような文化財を軸とするものであって、これまでの民俗学が重視してきた地域の暮らし全般を対象としたものではない点は押さえておく必要がある。
     これに対し、被災地に起こるさまざまな現象を、フィールドワークにもとづいて検討するような研究があまり行われていなかったのかというと、そうではない。民俗学の場合はそれほどではなかったが、その周辺諸科学である社会学や文化人類学では多くの研究者が被災地で調査を行っている。その際の特徴として、「脆弱性」や「回復力」といった、従来の災害研究の成果を踏まえ分析することが多い。つまり、災害を軸に調査対象を見ようとする傾向が顕著であった点が指摘できる。これに対し、これまでの民俗学が得意としてきた暮らしを軸として、これらの動きを考えるような研究は、十分行われてきたとは言えないのが現状である。
     以上の研究成果は、それぞれの立場において非常に意味があるが、民俗学の対応として、本当にこれだけでよいのかと考える研究者は、企画者だけではないようにも思われる。また、このような議論を行うことで、単に災害への向き合い方のみならず、民俗学そのものの視点や方法の特徴についても考える場ともなりうる。
     そこで、東日本大震災から5年以上を経た今日、『今だからこそ議論する「被災地で民俗学が考えるべきこと」』と題し、上記のようなこれまでの研究成果の意義と課題を踏まえつつ、日常というものを軸に人々の暮らしの意味を考えようとしてきた民俗学が、被災地に対しいかに向き合うべきかというテーマについて、具体的事例に基づく研究成果報告をもとに、ここに参加する皆さんとともに改めて議論できればと考えている。


    主催・共催:現代民俗学会/科学研究費補助金基盤研究C「被災地における暮らしの再構築とその民俗的背景に関する調査研究」(研究代表者:政岡伸洋)/科学研究費補助金基盤研究C「ポスト文化財レスキュー期の博物館空白を埋める移動博物館の実践研究」(研究代表者:加藤幸治)/東北学院大学アジア流域文化研究所

    第36回研究会(終了)人から描く民俗誌―あらたなフィールドワーク技法にむけて―

    日 時: 2017年1月8日(日)13:00~17:00
    会 場:福岡市博物館 講座室1
    プログラム:
     司会・趣旨説明:内藤順子(早稲田大学) 「経緯・趣旨」
     発題:川田牧人(成城大学) 「福の民手法の教育実践」
     発表1:三浦耕吉郎(関西学院大学) 「『福の民』から『ひとと人々』へ―福岡市史の「私の10年」」
     発表2:松村利規(福岡市博物館) 「『本日の名言』から『生きかたの向き』を考える」
     コメント1:門田岳久(立教大学)
     コメント2:谷智子(福岡市博物館)
    コーディネーター:
     内藤順子(早稲田大学理工学部)・川田牧人(成城大学文芸学部)


    趣旨:

     フィールドに身をおくと、たとえばひとの声色やちょっとした機微から、字面や画像や映像からはわからないことが見えてくる。ひとは日常的に世間とかかわり、家族やまちや社会を形づくるわけだが、他人や世間との絡みかたの流儀や社交術や阿吽の呼吸にいたるまで、意識しているにしろ無意識にしろ、技の使い手でもある。民俗とはそうした「暮らしのなかの技」(『福の民』2009)の集積ともいえるだろう。
     従来の民俗誌がおのずと土地柄(風俗習慣人情)を描いてきた傾向をふまえ、本シンポジウムでは、人柄からの民俗の描きかたに焦点をあて、あらたなフィールドワークの可能性を検討したい。人柄とはたんなるそのひととなりというだけではなく、そのひとや人々が繰り出す技や工夫や暮らしぶりを含む広がりを持ったひとの醸すなにかである。
     そこで、この手法をもちいて民俗を描き出された三浦耕吉郎氏と松村利規氏に、社交や民俗を描くのにはどのような手続きが必要なのか、その手の内を語ってもらう。そして、ひとに焦点化したフィールドワークについての別の著作『〈人〉に向き合う民俗学』の編著者である門田氏と、『福岡市史』制作プロセスで編集者として鋭く斬り込みを入れつつそれを支えてこられた谷氏の二方にコメントを担当していただく。
     この人柄から民俗を描く技法――名付けて〈「福の民」手法〉あるいは〈ひと焦点化手法〉――のあらためての方法化は、じつはすでに本企画者ふたりの教育現場において実践を試みている。ひと焦点化の有効性の実例として、そのプロセスと成果の現状を川田氏に話してもらうことから始めたい。


    三浦耕吉郎(関西学院大学)
    「『福の民』から『ひとと人々』へ―福岡市史の「私の10年」」
     初年度に飛び込んだ太鼓屋さんでニベもなく取材を断られたり、魚の行商人を追って行った志賀島の潮くさい民宿で悶々とした日々を振り返りつつ、『福の民』を執筆せずにひたすらそのメイキングの過程によりそい続けた前半の5年間の経験が、私にとっていかに『ひとと人々』の執筆の糧になったのかという観点から、「人々の暮らしのなかの技」にかんする考察を試みたい。

    松村利規(福岡市博物館) )
    「『本日の名言』から『生きかたの向き』を考える」
     私たちの周辺にいるちょっと気になる人たちとの、取りとめもない世間話の場から『福の民』は生まれた。そこでは何かの拍子に、人柄、経験、魅力その他、さまざまな要素が凝縮された「名言」が発せられることがある。それらをうまく捉まえることで『福の民』の短い記述にしっかりとした芯を与える試みについて、振り返ってみたい。


    【文献】
    『新修福岡市史特別編 福の民』福岡市史編纂室、2010年
    『新修福岡市史民俗編 ひとと人びと』福岡市史編纂室、2015年
    『<人>に向き合う民俗学』門田岳久・室井康成編著、森話社、2014年



    ■主催/共催:現代民俗学会/福岡市博物館/「高密度デジタルモバイルを用いた〈ひと〉焦点化フィールドワーク手法の開拓」(平成27年度~28年度科学研究費補助金(挑戦的萌芽研究)、研究代表者=内藤順子)

    第35回研究会(終了)民族文化映像研究所と姫田忠義の世界―歴史実践のなかのヴィジュアリティ―

    ポスター 日 時: 2016年12月11日(日)10:00(開場)~
    会 場:上智大学四谷キャンパス 4号館573室

    コーディネーター、司会・趣旨説明、ディスカッサント:
     菅豊(東京大学)
     北條勝貴(上智大学)
    ディスカッサント:
     姫田蘭(民族文化映像研究所・理事)


    スケジュール


     10:30~ 「奥会津の木地師」上映会(1976年/55分/民映研自主制作、 福島県南会津郡田島町針生)
     11:30~ 解説 小原信之(民族文化映像研究所・代表理事)

     13:30~
      ○菅豊:趣旨説明「民族文化記録映画製作の歴史実践としての意味」
      ○小原信之:「民族文化映像研究所の活動を振り返る。そしていまに繋ぐ」
      ○今井友樹(民族文化映像研究所・理事):「姫田忠義の活動を振り返る。そしていまに繋ぐ」
      ○北條勝貴:コメント「映像制作/経験としての歴史実践」
     討論
      ○姫田蘭:ディスカッサント

    趣旨:

    パブリックな場に開かれた歴史は、それを考え、学び、描く行為を「歴史家(歴史学者)」の独占から解き放ち、もっと多様な主体へと開こうとしてる。またそれは、歴史を考え、学び、描く形式を「文献(文字)」の偏重から解き放ち、もっと多様なメディアへと開こうとしている。そこでは、歴史学者のみならず、アカデミックとは無関係な職業や、立場性をもちながら歴史を描く人びともまた「歴史家」と見なされる。さらに文字的(literal)な媒体のみならず、口頭的(oral)な媒体、映像的(visual)な媒体、物体的(material)媒体も、総じて歴史を伝えるものとして重視される。今回の研究会では、このような「開かれた歴史」観に基づきながら、ヴィジュアルなイメージと映画という言説を通しての歴史の表象、すなわち「歴史映写(Historiophoty)」(White 1988)という歴史実践を検討してみたい。
     これまでの歴史学では、虚構性や脚色性が自明の歴史的な劇映画を読み込むことに果敢に挑戦してきた。しかし民俗学では、まずは逆に事実性や記録性を標榜するドキュメンタリー映画を、逆説的に読み込むことが取り組みやすいであろう。周知の通り、民俗学では1930年代の渋沢敬三、宮本馨太郎らの映像記録に端を発し、その後、産・学・官・民、営利・非営利を問わず多様なアクターが映像制作に参画し、多くの作品を遺してきた。それらの作品はとくに企図しなくとも、社会に存在する他の莫大な一般映像とともに、過去を伝える史料として転生し、後世の人びとによって鑑賞され、解釈され、利用される運命にある。  1970年代、姫田忠義とその仲間たちは、「日本の基層文化を映像で記録・研究することを目指して出発した民間の研究所」である民族文化映像研究所(通称・民映研)を起ち上げた。そして、その半世紀近い活動で119本もの映画作品を制作した。その活動はアカデミック民俗学と幾許かの縁があったものの、根本ではそこから独立した異質の文化と歴史の表象であった。
     その映像は、撮影された時代から大きくうつろった現代において、まさに史料と化している。ただし、その映像は単なる過去の「事実」を、現在に伝えるだけではない。この映像を見る「いまに生きる人びと」は、数十年前に撮られた映像から、「過去の生活の豊かさ」や「人びとの生きる力」などの現在を対照する価値を感じとっている。そして新しい文脈に過去を位置づけ直しながら、過去へ共感を抱きつつある。その映像は、いまを生きる人びとの見知らぬ過去と、現在、そしてこれからの未来を繋いでいく。
     本研究会では、民映研に関わってきた映像制作者たちを「歴史家」と見なし、またその映像制作活動を「歴史実践」として捉え直してみる。そして民映研に参画した映像制作者=歴史家たちとの対話を通じて、その歴史映写実践の契機や目的、映像的歴史叙述の諸技法、さらに映像の自己・他者、現代社会への影響などについて明らかにし、20世紀に日本で勃興した歴史実践としての民俗記録映像制作の意義について考える。(文責:菅豊)。



    ■主催:現代民俗学会、パブリック・ヒストリー研究会(科研「パブリック・ヒストリー構築のための歴史実践に関する基礎的研究」グループ)、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会
    ■後援:上智大学研究機構
    ■協力:民族文化映像研究所

    第34回研究会(終了)民俗学の論点2016

    ポスター 日 時: 2016年9月18日(日)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所大会議室

    登壇者:
     現代民俗学会研究企画委員会(第5期)
    コーディネーター:
     塚原伸治(茨城大学)、鈴木洋平(東京都市大学)


    趣旨:

     2016年5月から研究企画委員会の第5期がスタートしました。そのスタートにあたり、今期委員会が担当する2年間の研究企画の方針と、実際に開催される研究会の内容について公開で議論することを目的としてこの研究会は企画されました。
     本研究会の第一部では、研究企画委員が各自で議論したいトピックを持ち寄り、その意義や可能性について徹底的に検討します。討論の結果として、第5期委員会において実施する研究企画の具体化を目指すこととなります。
     さらに第二部は、若手研究者をメンバーとする次世代ユニットによるディスカッションの時間とし、担当の委員を中心に、今後の研究企画について検討を行います。第4期研究企画委員会から新機軸として導入された「次世代ユニット」の活動も3年目に入りました。メンバーが一新したこともあり、今後の方針について改めて検討しなおすタイミングでもあります。この第二部では具体的な研究会の企画立案にとどまらず、今後の若手ユニットの活動方針についても併せて検討していきます。
     研究企画委員による上記のディスカッションのあとには、会場全体でディスカッションをおこないます。あえてこのような機会を公開のイベントとして設けるのは、参加者の皆さんとともに考える中から、新たな課題やトピックが生み出されることを期待しているからです。企画案のプレゼンテーションをきっかけに、会場の皆さんがそれぞれに考える「民俗学のいま」をお伝えください。民俗学の論点を、多様な意見の中から浮かび上がらせ、企画として結実させることを目指したいと考えています。(文責:塚原伸治)。

    ■主催:現代民俗学会

    第33回研究会(終了)パブリック・ヒストリー―多様なる歴史実践から生まれる開かれた歴史―

    ポスター 日 時: 2016年9月10日(土)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所大会議室

    発題:
     菅豊(東京大学教授)
    「パブリック・ヒストリーとは何か?―歴史実践研究に向けての基本的枠組み―」
    特別講演:
     岡本充弘(東洋大学名誉教授)
    「パブリックな場にある歴史」
    コーディネーター・ディスカッサント:
     北條勝貴(上智大学准教授)、菅豊


    趣旨:

     「歴史」は、歴史学の独占物ではない。民俗学も、民俗という文化現象の歴史(的変遷)を扱う歴史民俗学に挑戦してきた。しかし今回の研究会は、歴史民俗学のように「民俗」という文化の一部を対象化し、その歴史を探究することを目指してはいない。人びとが「日常的実践において歴史とのかかわりをもつ諸行為」[保苅 2004]、すなわち「歴史実践」を社会・文化現象としてとらえ、その意味を探究するのである。
     歴史実践は地域や時代、そして専門家/非専門家といったアクターの属性を越えて普遍的に行われる行為であり、現象である。それは単なる「過去の回顧」ではない。「過去との対話を通じて現在の現実世界を創造する行為」なのである。さらに、それは伝統的な歴史学が依拠してきた文献などの文字的媒体によって限ってなされるのではなく、遺物や民具などの物質的媒体や絵画や映像などの視覚的媒体、口頭伝承などの音声的媒体など、民俗学も関心をもってきたような多種多様な媒体を以てなされるのである。
     この歴史実践を考えるにあたり、近年、欧米の歴史研究で注目されているパブリック・ヒストリー(public history)の動向は見過ごせない。米国では1970年代以降、公共部門の活動や政策と、歴史学や民俗学、考古学などの歴史系人文学とが連動して、狭義のパブリック・ヒストリーが勃興した。それは1990年代以降、専門化した学問の社会的孤立が問題視されるなか、社会や市民に資する歴史(学)、そして市民によって考究される歴史(学)という広義のパブリック・ヒストリーとして発展した。「歴史」は、もはや学者の独占物ではない。
     広義のパブリック・ヒストリーには、「歴史によって現在を創る」という積極的歴史実践観が貫かれる。またそれには過剰に専門化、職業化した歴史学によって独占されていた歴史実践を社会に開いていく歴史運動観が貫かれる。そしてそれには、歴史学に大きな衝撃を与えた「言語論的転回」という思潮が少なからず影響を及ぼしている。歴史をただ物語として見なすだけではなく、「何かのために」「誰かのために」物語としての歴史を紡ぐことに重きを置く。このような歴史実践は、歴史学や民俗学、文化人類学、社会学、宗教学といった「歴史」に少なからず関心をもってきた学問の共通課題であり、その考究は脱領域的な歴史研究のアリーナを形作ってくれることであろう。
     本研究会では、日本の歴史研究では未だほとんど顧みられていないパブリック・ヒストリーや、それにインパクトを与えている歴史叙述の諸転回について論点を整理し、「パブリックな場にある歴史(history in public place)」や「人びと自身が創り出す歴史(people's history)」、そして「歴史する(doing history [保苅 2004]あるいはhistorying [Munslow 2010])」ことの可能性と問題点、そしてその研究/実践の今後の展望について討議する(文責:菅豊)。


    ■主催/共催:現代民俗学会、パブリック・ヒストリー研究会(科研「パブリック・ヒストリー構築のための歴史実践に関する基礎的研究」グループ)、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会

    第32回研究会(終了)フォーク・メディアとフォーク・コミュニケーション―〈いくつもの民俗学〉と現代民俗学―

    ポスター 日 時: 2016年8月6日(土)13:30~
    会 場:神戸大学国際文化学研究科(鶴甲第1キャンパス)学術交流ルーム(E410)
    発表者:
     荒井芳廣(大妻女子大学)
     竹村嘉晃(人間文化研究機構総合人間文化推進センター/南アジア地域研究国立民族学博物館拠点)
    コーディネーター:
     梅屋潔(神戸大学)・島村恭則(関西学院大学)


    趣旨:

     フォークロア研究/民俗学は、世界各地で行なわれているが、そのあり方は多様である。
     ブラジルでは、フォークロア(民俗)を情報伝達と感情・思想表現の回路ととらえるフォーク・コミュニケーション概念が提唱されており、この概念のもと、会話、報告、韻文、物売りの声、説教、民謡、演劇、儀礼、祭礼など直接的な接触を通してのコミュニケーションや、銘文、版画、民衆本、民芸品、絵馬、メダル、リボン、ロウソクなどの「もの」を介するコミュニケーションがさかんに研究されている。ブラジルの大学では、コミュニケーション系学部の中にフォーク・コミュニケーションのカリキュラムが用意され、コミュニケーションとしてのフォークロアの研究・教育が行なわれている(荒井2004)。
     インドでも、1970年代以降、フォークロアの実践を、民俗芸能、歌謡、儀礼、造形などの形式を用いたコミュニケーション行為であるととらえ、それが政治的・経済的に流用される状況も含めて、フォーク・メディアの概念のもとで研究が行なわれてきた(竹村2015)。インドの大学においては、メディア・コミュニケーション系学部の中でフォーク・メディアの研究・教育が行なわれている。
     今回は、こうしたブラジルとインドのフォーク・コミュニケーション研究、フォーク・メディア研究を、世界に存在する〈いくつもの民俗学〉の一つのあり方としてとらえ、これらについて造詣の深い二人の人類学者に、その理論的枠組みや学史的背景、近年の動向についてうかがい、民俗学をメディア・コミュニケーション研究としてとらえる視点を彫琢したい。


    荒井芳廣(大妻女子大学)
    「ブラジル民俗学への道」
     報告者がブラジルに初めて調査に訪れたのは1970年代末であった。当初から調査地はブラジル北東部ペルナンブコ州のジュアゼイロ・ド・ノルチと決めていた。ブラジルでの調査対象をこのブラジルの奥地の中都市を中心に生産・流通する民衆的小冊子、リテラトゥーラ・ヂ・コルデウと決めていたからであった。1か月余りの短い調査期間を、まずブラジルの学問研究の中心であるサンパウロとリオデ・デ・ジャネイロから始めたのは、この民衆衆的小冊子の主要な研究者と研究機関がこの2つの都市にあったからというばかりでなく、この2つの都市にはブラジル北東部からの移住者が多く住み、この地域の民俗現象を運んできていると聞いていたからである(サンバやカルナバルのその例である)。果してこの大都市で後に共同調査をするようになる小冊子作者や研究者と出会った。そのうちでも最も影響を受けたのがECA(サンパウロ大学コミュニケション&芸術学部)とその研究者であった(当時はまだ博士論文を準備する学生であった)。そのあとペルナンブコ州の州都レシーフェに赴き、奥地の街を巡りながら、ブラジル各地の様々な民俗現象とそれぞれの地域での民俗学研究の伝統に出会い、さらには先の2大都市で「民俗学」が社会科学系学部の必須カリキュラムとして導入されるプロセスも知るようになった。本報告では報告者がブラジルでの調査で知りえたブラジル民俗学の学史的地位について話したい。

    竹村嘉晃(人間文化研究機構総合人間文化推進センター/南アジア地域研究国立民族学博物館拠点) )
    「神霊祭祀が具象化するインド民俗学の視座」
     多様な諸芸術が受け継がれているインド世界では、藩王国時代より英植民地統治から近現代に至るまで、歌謡や村芝居、舞踊、祭祀などの芸能がメディアとしての機能を果たしてきた。報告者が2002年より調査を続けている、南インド・ケーララ州北部に伝わる神霊祭祀のテイヤムは、同地域における人びとの宗教や社会的生活の中心となっている傍らで、「民俗芸術」という肩書きと共に、宗教的文脈から逸脱した複数の場に異なる媒介を通じて表れている。
     本報告では、テイヤム祭祀をめぐる今日的状況について、第一に活字メディアに焦点をあて、神霊とその祭儀が人びとの間でどのように位置づけられてきたのか、英植民地期から現在にいたるまでのテイヤム祭祀のイメージと知識の形成過程を紹介する。第二に、インド民俗学の領域で注目された「民俗メディア」という枠組みを示しながら、州政府が誕生した20世紀後半において、テイヤム祭祀が政治や芸術の文脈でいかに流用・配役されてきたのかを詳述する。第三に、テイヤム神のイメージが祭儀とは異なる日常のかつ多元的なメディア空間において繰り返し再生産されている状況を観光と生活世界の文脈から検討する。最後に、電子メデイア空間における神霊を介した新たなネットワーク形成の動態について触れる。
     以上をふまえ、本報告では、近代化の過程におけるローカルな神霊祭祀の多元的かつ複合的な受容動向を明らかにしながら、インド民俗学における芸能への視座をメディアとのつながりから再検討する。


    【文献】
    荒井芳廣 2004「訳者解説」『ブラジル民衆本の世界―コルデルにみる詩と歌の伝承―』(増補版)、ジョゼフ・M・ルイテン著、荒井芳廣・河野彰・古谷嘉章・東明彦訳、御茶の水書房。 竹村嘉晃 2015『神霊を生きること、その世界―インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌―』風響社。


    ■主催/共催:現代民俗学会・神戸人類学研究会

    第31回研究会(終了)他者の中の日本像 ―複層化する台湾の『民俗学』的視線―

    ポスター 日 時: 2016年3月6日(日)13:00~
    会 場:成城大学 3号館311教室
    発表者:
     明田川聡士(東京大学大学院/台湾文学)
     鈴木洋平(東京都市大学/民俗学・文化人類学)
     水口拓寿(武蔵大学/中国思想文化学・台湾文化研究)
    コメンテーター:
     西村一之(日本女子大学)
    コーディネーター:
     鈴木洋平(東京都市大学/民俗学・文化人類学)


    趣旨:

     近年の台湾では、自分達の地域を自分達の手で描き直す新たな視線構築への試みが生まれつつある。かつての日本統治期に対しても、よりフラットな視線から過去を見直そうとする研究が多様な形で示されている。こうした自分達を含む歴史を描こうとする郷土研究の底流には「文史工作者」ら有志による地域への関心があった。自分たちの地域を見つめ、その歴史と向き合おうとする今の台湾のエネルギーは、日本民俗学が日本という地域を見つめてきた視線と共鳴し得る。
     台湾における郷土研究は、1980年代末から民主化の状況に歩を合わせるように登場し、総合的な研究へと広がっていった。台湾は長らく、中国王朝期の「正史」という側面から見れば記述の対象外とされるような地域であった。植民地統治の必要という明確な目的を持っていたにせよ、その地と向き合い膨大な記録を残した時期として、台湾における日本統治期が残したものの活用が進められている。戦前に刊行された雑誌『民俗台湾』などをはじめとする日本統治期の民俗学的雑誌・文献も資料として改めて見直されつつある。
     自文化研究者としての民俗学者、そしてかつての当事者・資料作成者としての日本人。二つの側面から、日本民俗学が台湾における民俗学的研究に関わることの意義は高まりつつある。台湾における民俗学的視線とは、日本と台湾をめぐる自分自身、そして他者として互いを眺める視線の交錯の歴史でもあった。また、台湾を舞台に民俗学的視線について考えることは、柳田国男が民俗学の視野としては「少し程遠い話」としていた他地域の自文化研究に視線を合わせることでもある。台湾という地域は、かつての民俗学的思考の蓄積、そして学問技法としての民俗学が試される場と言えよう。
     本研究会では、台湾で見られる「自己に向けられる視線」の多様なあり方を紹介しながら、各時代に描かれた、あるいは意図的に描かれなかった「日本」を媒介として、等身大の台湾との距離感について考える。「自分自身をどう捉え、どう描くか」という問題を通して、民俗学というものが持つ対話可能性について考えていきたい。

    明田川聡士(東京大学大学院/台湾文学)
    「戦後台湾文学における「皇民」表象」
     台湾では戦前、特に日中戦争の開戦以降には、台湾人の戦争動員の必要から台湾総督府を頂点とするさまざまな運動を通して日本への同化がはかられた。「皇民化運動」は日本の敗戦まで継続し、国民党による統治の開始に伴い「皇民」たる人物は存在しなくなったが、その爪痕は後の台湾社会にも遺り続けている。言うまでも無く、現代台湾社会においても「皇民」という言葉は、極めて否定的でネガティブな意味を持つ。但し、こうした皇民をめぐる言説や評価、表象が時代とともに変遷したことも事実であり、その事実は台湾人・台湾社会を理解する上でも留意する必要がある。
     本発表では、かつて親日文学として否定された皇民化運動期の「皇民文学」が、1970年代末に突如脚光を浴びたことに注目し、当時の複層的な社会・文化環境の中で、皇民という表象が如何に解釈されたのかを考察する。

    鈴木洋平(東京都市大学/民俗学・文化人類学)
    「「日式墓」推移と選択される日本要素」
     台湾で墓地の調査をしていると「日本人の墓があるぞ」と案内されることがある。その多くが棹石を持った形式の墓で、台湾では研究上「日式墓」などと分類される様式の墓である。その多くは「日本人の墓」ではなく、台湾の人々のために建てられ、日本統治期より作られてきた。「日式墓」は台湾各地で様々な人々により、断続的に作られながら今に至っている。それぞれの日式墓には、棹石を建てるなどの形式的な特徴を除き、必ずしも共有するものはない。「日式墓」を一つの形式として分析することは困難であり、各世代が行った選択と、その後の子孫による向き合いの累積を見えにくくする。
     本発表では、時代ごとに異なる意味を持つ日式墓が建てられる過程と、建立以後の遺族による対応の変化を検討する。墓を祀る主体となる各時代ごとの生存者が、自分達の墓、そして日式墓という存在にどのように向き合ってきたか。台湾に生まれた個々人が日本的要素を積極的に取り込み、「日本人の墓」とも呼ばれるような墓への意味づけを読み替えていく過程を検討したい。

    水口拓寿(武蔵大学/中国思想文化学・台湾文化研究)
    「台湾における「孔子廟と日本」の120年―或いは「自己と他者の連続と断絶」をめぐる言説史―」
     孔子廟は儒教に属する施設であり、孔子とその高弟などを神として祀る。台湾に現存する孔子廟は、数え方にもよるが40余りに達し、それらは清朝統治下で建立されたもの(台南・彰化など)、日本統治下で建立されたもの(台北・日月潭など)、国民政府統治下で建立されたもの(高雄〈左営〉・台中など)に分かれる。
    1895年~1945年の間、統治者としての日本は、初めは各地で孔子廟を廃し、次にはそれらの再興を主導或いは援助し、また祭祀儀礼に官僚を出席させ、最後には儀礼内容の日本化(神道化や日本語化)を図った。やがて1960年代後半から、国民政府による中華文化復興運動の一環として、祭祀儀礼の官営行事化と、政府による孔子廟の接収や新規設置が相次いで行われたが、こうして再び統治者の強い管理下に置かれた台湾の孔子廟では、特に台北孔子廟の祭祀儀礼において、日本人の参列や日本語による経典朗読(北京語・英語・韓国語による朗読と並んで)など、改めて隣国日本との結び付きを生じるようになった。
    この120年間に台湾の孔子廟を「統治」した者たちは、日本側にせよ台湾側にせよ、儒教を日本と台湾(或いは日本と「中華」)に共通の文化であると措定した上で、自己と他者の連続や同質性をアピールする場として、孔子廟を各者各様に利用したと見ることができる。その一方で、孔子廟に対する彼らの関心は、むしろ彼らに両者の断絶や異質性を意識させる場合もあった。本発表では、このように孔子廟をめぐって「自己と他者の連続と断絶」という観点から発せられた言説を、それぞれの時代や立場を踏まえながら追跡し整理する。

    ■主催:現代民俗学会

    第30回研究会(終了)「捨てられゆくもの」の民俗学・社会学 ―村落社会における耕作放棄・空き家・無縁墓―

    ポスター 日 時: 2015年12月20日(日)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所3階 大会議室
    発表者:
     藤井紘司(早稲田大学研究員/民俗学・文化人類学)
     芦田裕介(宮崎大学/農村社会学)
     五十川飛暁(四天王寺大学/環境社会学)
    コーディネーター:
     金子祥之(東京大学/民俗学・社会学)、菅豊(東京大学/民俗学)、矢野晋吾(青山学院大学/農村社会学)



    趣旨:

     日本社会では、いま、さまざまなものが捨てられている。「ごみ」のように誰の目からも利用価値がないと判断できるものだけではない。捨てるという言葉が相応しくない、田畑や屋敷、そして墓までもが、捨てられ、放置される対象となっている。田畑・屋敷・墓地が放置されると、地域の衰退が目に見える形で現出し、異様な景観をつくりだす。こうして、荒れ地・空き家・無縁墓が社会問題として顕在化する。
     これら三つの問題は、民俗学・村落社会学の主要なフィールドとなってきた農山漁村で深刻化している。耕作放棄は農山漁村に特有の問題であるが、空き家や無縁墓は都市・村落の別なく課題となっている。だが、空き家や無縁墓の問題も、とくに農山漁村において深刻化しやすい。なぜなら、過疎化・高齢化・離村が進行するなかで、担い手不足により管理しようもない、田畑・屋敷・墓地が目立ってきているからである。
     こうした村落空間内のアンダーユースが目立つ現状に対し、行政的なアプローチがとられはじめている。田畑・屋敷・墓地はいずれも私有財産であり、法的保護の対象である。それゆえに、これらが捨てられ、放置されているからといって、一足飛びに第三者による管理が可能になるわけではない。そこで空き家に関しては、2015年に、年限を区切って行政的な管理が可能になる法令が整備された。田畑については大規模農家や農業生産法人への土地集積が誘導されている。
     それに対して別の方法を提起するのは、共有地の管理をめぐって議論を展開してきたコモンズ論者である。コモンズとは、複数の主体が協働して資源を管理するあり方を指す。コモンズ研究では、環境保全・資源管理において、地域社会の資源管理方法が有効であることが示されてきた。このようにコモンズ研究では、地域社会による資源管理に注目してきたため、見捨てられた田畑・屋敷・墓地を地域社会が管理するしくみが作りえないかが議論されている。
     これらの指摘を活かしながら、農山漁村をもっとも大切なフィールドとしてきた民俗学・村落社会学は、オルタナティブなアプローチを提起できるはずである。田畑・屋敷・墓地は、いずれも村落社会を構成する家にとって、重要な家産として特別な意味付けがなされてきたものである。そもそも農山漁村に暮らす人びとにとって、荒れ地・空き家・無縁墓がいかなる問題なのだろうか。あるいは伝統的にはこうした問題に対していかなる対応策が用意されてきたのであろうか。「荒れ地・空き家・無縁墓」をめぐる「問題」の構成そのものを批判的に検討しながら、現代村落の課題にフィールドから応答していきたい。

    藤井紘司(早稲田大学研究員)
    「島嶼社会において無縁墓はどのようにあつかわれてきたのか」
     近年、無縁墓が増加し、墓地の荒廃や撤去費用による財政圧迫、果ては墓石の不法投棄など、地域生活の新たな課題にのぼっている。これらの問題に対し、墓地行政の基本的な方針は墓地の集約化と無縁墓の合葬式共同墓(無縁塔)への改葬とが軸となっている。本発表では、公共工事や宅地開発による無縁墓の改葬が全県でもっとも高い沖縄県をフィールドにし、行政による合葬式共同墓への改葬を拒否し、縁故者でないにもかかわらず無縁墓を手放さず、管理し続けている事例を取り上げる。地域社会がなにゆえに「捨てられゆくもの」に抗し、無縁となった墳墓に働きかけ続けているのかをあきらかにする。

    芦田裕介(宮崎大学)
    「空き家をめぐる政策の論理と地域の論理」
     日本の空き家率は上昇の一途を辿っており、防災や防犯、景観や人口問題などの観点から空き家への社会的関心が高まるなか、2014年には「空き家等対策の推進に関する特別措置法」が制定され、全国の自治体で空き家対策が進められつつある。実際の現場においては、空き家をめぐって行政や所有者、地域住民などのさまざまなアクターが存在し、それぞれの関心や思惑は地域社会の置かれた状況によって異なる。空き家への対応は、こうした諸アクターの空き家に対する意識や関わり方、アクター間の関係を考慮したうえで、慎重に検討することが必要だと考えられる。しかし、空き家に関する政策や研究では、これらの点について十分に議論がなされないまま、「空き家」が定義され、「空き家」の増加が問題視されているような印象が否めない。本報告では、まず「空き家」を「管理」しようとする政策の側の論理について検討する。そのうえで、全国的にみても空き家率が高い和歌山県のなかで、とくに過疎化・高齢化が進んでいる高野町の農山村を事例として、地域社会にとって、空き家にはいかなる意味があり、空き家をめぐって何が問題なのか、ということを考えたい。

    五十川飛暁(四天王寺大学)
    「「荒れ地」の利用にみる地域社会の空間管理――河川敷をめぐって」
     本報告が対象とするのは河川敷の共同利用である。そのため、今回の研究会の主題である「捨てられゆくもの」としての切実さは、田畑や屋敷地や墓地に比べてやや弱いところがある。ただ、河川敷というのはそもそも所有や利用にかんする「曖昧さ」がともなってきた空間である。その曖昧さのなかでも地域社会の人びとにとって意味のある空間でありつづけているとするなら、そこには、上記空間の今後の「管理」のあり方にもつながるようなヒントがあるように思われる。以上のようなことを念頭におきつつ、行政的な管理のあり方と対比をしながら、河川敷をめぐる人びとの利用とそのポイントについて考えることにしたい。


    ■主催/共催:現代民俗学会、日本村落研究学会、「新しい野の学問」研究会(科研「現代市民社会における『公共民俗学』の応用に関する研究―『新しい野の学問』の構築―」(代表者:菅豊)

    第29回研究会(終了)獣害問題を民俗学から考える―在来知と科学的管理の交錯

    ポスター 日 時: 2015年11月14日(土)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所3階 大会議室
    発表者:
     近藤祉秋(アラスカ大学大学院)
     合原織部(京都大学大学院)
    コメンテーター:
     田口洋美(東北芸術工科大学)
     奥野克巳(立教大学)
    コーディネーター:
     菅豊(東京大学)、塚原伸治(茨城大学)、 近藤祉秋(アラスカ大学大学院)



    趣旨:

     近年、過疎化の進行にともない、様々な地域で獣害が深刻な社会問題となっている。平成20年の調査によれば、獣害にまつわる経済的損失は、日本全国で200億円弱にのぼった。この問題に関して、生態学、動物行動学、環境社会学、農学など、様々な分野からのアプローチが試みられており、人と動物の関係学という枠組みに接続される形で重要な学際的テーマとして浮かび上がっている。このテーマは人獣交渉を論じてきた民俗学においても重要であるだろう。
     人と動物の関係をめぐる議論が学際化する背景を理解する上で、「伝統的生態学的知識」(Traditional Ecological Knowledge :略称 TEK)論をおさえておく必要がある。その議論においては、これまで「迷信」、あるいは「時代遅れの習慣」とみなされてきた「伝統」的な知識や実践(民俗学の研究対象)を、開発の現場に取り入れることで、 地域主体の持続可能な資源管理を実現できると謳われてきた。日本で喧伝されている、いわゆる「里山」における資源利用を一面的に評価し、礼讃する動きなどがその好例である。保全生態学などの自然科学者、あるいは環境政策学者などの応用学者が主役を演じてきた資源管理に対して、現地社会の代表者や現地の事情を知る民俗学者/文化人類学者が、共同管理におけるステークホルダーとして発言の機会を与えられるようになってきたのである。
     安易なTEK礼賛には批判も多い。例えば、一部のTEK論者は「伝統的生態学的知識」と「科学的知識」の統合を説くが、在来の知識・実践は、科学者や行政によって、自らの主張や政策を遂行する上で、都合の良い「お墨付き」として利用されることがある。いかにも在来の人びとを尊重し、その価値を高く評価するように見せかけているが、その実、都合のよいところを「つまみ食い」しながら、自らの主張と整合的に環境ストーリーを構築する場合がある。
    しかし、TEKが先住民などの社会的に周辺化された集団のエンパワーメントと結びつけられて論じられてきたこともあり、現地社会がこうした動きを積極的に活用するという状況も生まれていることは、問題をより複雑にしている。 つまり、在来知と科学知の断絶、あるいは反対に意図的な誤った接合などを指摘するのは容易い一方、両者が戦略的に恊働したり、交流を深めたりするポジティブな状況が生まれてきているのである。
     本研究会では、狩猟にまつわる在来知・在来実践に焦点をあてることで、在来知と科学知をめぐる議論を補助線としながら、獣害問題に民俗学者、文化人類学者がどのような視点を提供することができるかを考えたい。(文責:近藤祉秋)

    近藤祉秋(アラスカ大学大学院)
    「内陸アラスカにおけるサケ類の減少問題と資源管理:TEKの「つまみ食い」を超えて」
     狩猟と漁撈を生業基盤とする内陸アラスカのアサバスカン社会にとって、「獣害」はサケやヘラジカなどの食用動物に対する補食・繁殖阻害としてあらわれる。現在、サケ、ホワイトフィッシュをはじめとする内水面漁撈の対象種が減少していることが大きな問題となっており、現地では商業漁業による混獲、環境汚染(放射能汚染を含む)、ビーバーの激増が原因とみなされている。しかし、原因の究明にあたっている、州政府の科学者(魚類学者)は、在来知を重視しようとする現在の方針にも関わらず、増え過ぎたビーバーダムが魚の遡上・移動を妨げているという現地人の見解を真剣に検討することはない。なぜなら、最近の研究では、ビーバーによる周辺環境の改変によって、魚の生育にとって好影響がもたらされる可能性が指摘されているからだ。
     本発表では、アラスカ州クスコクイン川上流域のサケの遡上地におけるクマの待ち伏せ猟、およびその際におこなわれるビーバーダムの小規模な破壊を事例として、科学的知識生産の補助線として在来知を「つまみ食い」するのではなく、その在来知が依拠する実践へのホリスティックな着目が重要であると主張する。

    合原織部(京都大学大学院)
    「宮崎県椎葉村における猿害対策と狩猟」
     本発表では、宮崎県椎葉村における獣害現象のなかでも、10年ほど前からニホンザルによる被害が深刻化した松尾地区の旧岩宿集落、野地・竹の八重集落に着目し、野生生物管理における行政の介入が、サルの祟りを語り継いできた猟師や他の村人にどのように受け取られ、どのような具体的な駆除実践に結びついてきたかを報告する。イノシシ猟を盛んにおこなってきた当該地区の猟師たちは、伝統的に狩猟対象ではなかったニホンザルを相手にする際に苦難を経験してきた。そのような状況に際して新しく導入された大型捕獲囲い罠とそれをめぐる一連のやりとりを事例として、在来知と科学知の錯綜した関係を論じたい。


    ■主催/共催:現代民俗学会、科研「現代市民社会における『公共民俗学』の応用に関する研究―『新しい野の学問』の構築―」(代表者:菅豊)、科研「動物殺しの比較民族誌研究」(代表者:奥野克巳)

    第28回研究会(終了)物質文化研究の新地平

    ポスター 日 時: 2015年8月1日(土)13:00~
    会 場:神戸大学鶴甲第一キャンパスF棟301号教室
    発表者:
     後藤明(南山大学)
     大西秀之(同志社女子大学)
    コメンテーター:
     島村恭則(関西学院大学)
    コーディネーター:
     梅屋潔(神戸大学)



    趣旨:

     欧米の民俗学には、長い口承文芸研究の系譜とともに、物質文化/フォークライフ研究の系譜が存在している。これは、北欧をはじめとするヨーロッパの周縁部で野外博物館の展開と関わりながら発展した研究領域で、のちにアメリカに伝わり、ヨーダー(Don Yoder)、グラッシー(Henry Glassie)、ジョーンズ(Michael Owen Jones)、ブロナー(Simon J. Bronner)といった研究者によって大きな成果があげられて現在にいたっている。今回は、とくにアメリカ民俗学における物質文化/フォークライフ研究のあり方を検討しつつ、これを歴史考古学や技術人類学などにおいて展開されてきた物質文化研究のより広い動向の中に位置付け、現代民俗学における物質文化研究の可能性と課題について考えたい。(文責:島村恭則)

    後藤明(南山大学)
    「技術人類学における米国物質文化研究」
     1980年代、当時主流のプロセス考古学に対立して台頭した英国のポスト・プロセス考古学はビンフォードなど米国の先史考古学者を批判する一方、グラッシーら民俗学、あるいはディーツやレオーネなど歴史考古学者に親和性を示した。米国の物質文化研究や歴史考古学には人類学の「王道」先住民研究、また欧州系のみならず、アフリカ系やアジア系移民への目配りもあった。さらにブロナーやジョーンズらの研究は、フランスの動作連鎖論、また近年の物質的関与論やインゴルドの「生の人類学」に接合する視座を含んでいることなどを論じたい。

    大西秀之(同志社女子大学)
    「物質文化研究は「モノ」語りか?―非言語的実践の追究をめぐる民族誌アプローチ―」
     人文社会科学では、近年、モノをめぐる理論がにわかに注目を集め、また活発な議論や研究が行われているように窺える。ただ、そこでのアプローチの多くは、あくまでもコトバに依拠したものとなっている感が否めない。このような潮流を踏まえ、本報告では、日常世界における非言語的実践を対象として、一般に「物質文化研究」とされる研究群の再検討を試みる。こうした再検討を通し、非言語的実践に対する民族誌アプローチの可能性を示すと同時に、そもそも「物質文化研究」とはモノを対象とする研究なのか、という根源的な異議申し立てを提起する。なお、本報告では、理論背景としてフランス社会学・人類学を参照するとともに、日本の民俗学的研究との接合も射程に入れる。


    ■主催:現代民俗学会

    第27回研究会(終了)生活のなかの感性と美学

    ポスター 日 時: 2015年4月26日(日)11:00~12:15
    会 場:成城大学3号館311教室
    発表者:
     俵木悟(成城大学)
     丸山泰明(元国立歴史民俗博物館)
     横川公子(武庫川女子大学)
    コーディネーター:
     俵木悟



    趣旨:

     日本の民俗学は長らく「美」の問題を正面から論じることをしてこなかった。むしろ意図的にこれを避けてきたようにも思われる。これは諸外国と比較して、日本民俗学の顕著な特徴のひとつである。例えばアメリカ民俗学では、1970年代にDan Ben-Amosが民俗(folklore)を、’artistic communication in small groups’ と、またDell Hymesが民俗学(folklore study)を、’ the study of communicative behavior with an esthetic, expressive, or stylistic dimension’と定義づけて以来、表現文化の「美的」な性格を論じるのは、民俗学の主要な研究関心であったと言えよう。あるいは同じ東アジアの中国、韓国などでも、文芸・工芸・舞踊・演劇などの「芸(artistic skill, performance)」は民俗学の最も民俗学らしい研究領域であった。
     日本でも民俗学で美を論じることが試みられていた時代があった。昭和2年に結成された民俗芸術の会はその代表的な組織であり、その結成にも少なからず関わった柳田國男は『郷土生活の研究法』(1935)で、よく知られた民俗資料の三部分類の心意現象のなかに「趣味」を位置づけ、「善と美はともにこの一般的趣味の下に包括されるもの」と述べている。この当時の「民俗芸術」という研究視点がもっていた可能性は、近年、真鍋昌賢らによって再評価が進められている。その系譜が途絶えた一つの要因は、後の民俗学が客観的・実証的な科学たることを標榜するなかで、価値の評価に関わることを徹底的に避けてきたことがあろう。柳宗悦らの民芸運動と民俗学が、趣味的・鑑定家的志向をめぐって袂を分かった経緯などにそれが表れている。
     私たちはここで、人びとの生活のなかに表れる美の問題に、新しい視点で挑んでみたいと考える。柳田の「趣味」の言葉にヒントを得て、これをものごとの良さや美しさを感じ取る能力(=感性)と捉えなおす。すると、それが特定の社会文化的な状況でどのように発現するのか、またそれに基づいて人びとが何を「美しいもの/良いもの」として選択してきたか、あるいは自らの生活を少しでも美しく豊かなものとするためにどのような技や知識を生み出し伝えてきたか、といった問題が民俗学の課題として立ち上がってくる。日々の生活実践としての「こだわり」や「工夫」のなかに美意識を見出し、それらが時代的・社会的な規範性をもちながらも、個人の創意工夫によって更新されていく様相は、狭義の表現文化に止まらず、民俗学が取り組むあらゆる研究領域のなかに見出せるであろう。こうした問題を広義の「美学」として論じる可能性を開きたい。(文責:俵木悟)

    俵木悟(成城大学)
    「良い踊りの民俗誌―踊りの評価の文化的構成」
     日本の民俗芸能研究は芸能の「芸」やその評価を論じることを避けてきた。不特定の人びとが無意識的に伝える民俗芸能という概念規定によって、個々の演者の一度ごとの上演と不可分の芸の評価は研究の埒外とされた。だが芸能実践の場では、演者と観客双方にとって芸の巧拙が主要な関心の焦点であることは間違いない。
     本発表では、鹿児島県いちき串木野市大里に伝わる七夕踊を事例に、地域の青年が演じる太鼓踊りの芸の評価がどのようになされるかを考察する。この踊りは、青年男性が一生に一度、一週間の稽古によって習得するもので、高度に洗練された熟練の芸を受け継いでいるわけではない。それでも集落代表の踊り手が少しでも高い評価を得られるよう多くの住民が結集する。その踊りの評価には絶対かつ客観的な基準は存在しない。人びとの記憶、踊り手の個人史、各時代の社会状況など多くの要因が相乗して、評価が文化的に構成される様相を明らかにしたい。

    丸山泰明(元国立歴史民俗博物館)
    「今和次郎と田園生活―造形の観察と実践の場としての郊外」
     今和次郎の研究をめぐっては、1923年の関東大震災をきっかけとして民家研究から考現学へ移行した、すなわち農村の研究から都市の研究へ移行したといわれることが多い。しかし、生活者としての今は震災をきっかけとして東京都心から西郊外に引越し、教授として勤めていた早稲田大学に電車で通勤する郊外生活者となる。震災前年の1922年に出版した『日本の民家—田園生活者の住家』で、今は農村が都市に侵食され民家が失われていく郊外化の様子を批判的に論じているが、自らもまた郊外で暮らし始めるのである。自然に囲まれた郊外で仕事の合間に菜園を耕し庭をつくる暮らしは、当時理想として語られていた都市と農村が調和する生活を実践するものであるともに、それまでの民家の見方を変えるものでもあった。今が美しく楽しい住まいについてどのように考えていたのかについて、研究の軌跡とライフヒストリーをたどりながら検討することにしたい。

    横川公子(武庫川女子大学名誉教授)
    「生活の中の手工芸における美と感性の力」
     生活の中の手工芸は、近代化の中で、暮らしの基底に沈殿した美や感性を引き受けてきた砦の一つではなかろうか。大抵の手工芸品は、制作者の手元にひそやかに置かれ、ときには贈り物や展示用に供されることもあるが、大半は、家庭の中で使用され、飾られ、しまい込まれたまま家族に受け継がれ、人の目に触れないままに忘れられてきた。しかし近年の商品化やボランティア活動には、変化が認められる。そこには、元々手工芸が内に秘めていた爆発的な力が見出せる。
    展覧会「共感のちから・無名のちから―明治・大正・昭和を生きた人々の手芸品」(武庫川女子大学資料館 平成23年度展覧会、横川監修)の試みは、手芸品が持つ底力について、改めて考えさせる。手工芸品に凝縮された、暮らしを飾ること、味わうこと、そして生きることに見出だせる美的こだわりには、未来への予兆が炙り出せるのではなかろうか。


    ■主催/共催:現代民俗学会、Anthropology of Japan in Japan、成城大学グローカル研究センター

    第26回研究会(終了)二つのミンゾク学から世界民俗学、そしてその先―グローバルでローカルで複数のフォークロア研究へ

    ポスター日 時: 2014年12月21日(日)13:30~
    会 場:東京大学東洋文化研究所3階 大会議室
    発表者:
     川田牧人(成城大学)
     梅屋潔(神戸大学)
     島村恭則(関西学院大学)
    コメンテーター:
     小熊誠(神奈川大学)
    コーディネーター:
     梅屋潔(神戸大学)・川田牧人(成城大学)・島村恭則(関西学院大学)


    趣旨:

     民俗学の古くて新しい問題の一つに「二つのミンゾク学」がある。言わずと知れた「民俗学」と「民族学」である。古くは柳田國男が『青年と学問』(S3)でこの問題をさかんにとりあげ、たとえば「〔エスノロジーを〕民俗学と訳してみたいのであるが、困るのは、「民族」という語と響が紛らわしいのみならず、べつに民族学という方がよいという者もあるので、にわかにそう決めるわけに行かぬ」(「Ethnologyとは何か」)や、「まず名前が問題になる」として、「諸君はたぶんこれを英語でいうフォクロア、またはエスノロジーの意味に解しておられるのであろう。…一方フォクロアを民俗学、他方エスノロジーを土俗学とでも訳して置くとしたらどうか」(「日本の民俗学」)などと逡巡していた。そして『民間伝承論』(S9)ではethnologyを「土俗学」とあえて音をかえて訳し、「広い意味の人類学が融合して、完全な一つの学問となるまでには、今いう土俗学はもう少し積極的に、こちらから進んで事実を集めて行く仕事になっていなければならぬ。よほど国々のフォクロアと、近い形にまでその態度を変えた後でないと、社会人類学、あるいは強いて民族学と名乗る学問とは一緒に手を繋いで並んで行くことが難しいと思う」と距離をおくいっぽうで、民俗学自体の発展については、「一国民俗学が各国に成立し、国際的にも比較綜合が可能になって、その結果が他のどの民族にも当てはめられるようになれば、世界民俗学の曙光が見え初めたといい得るのである」として「世界民俗学」を標榜していたことがうかがえる。
     「二つのミンゾク学」の問題は、日本民族学会の日本文化人類学会への改称(2004年)を契機として、日本国内でcultural anthropologyを「文化人類学」と称する傾向がつよくなったことも関係して、近年では大きな問題としてとりあげられることは少なくなったように見受けられる。しかしいっぽうを「民俗学」もういっぽうを「文化人類学」と称し分けることで棲み分けが完全になされたと考えることはできない。そもそも近年では、anthropology at homeの動きにみるように人類学による自文化研究や、その逆に民俗学における外国研究などもさかんになってきており、ますます乗りあわせが顕著になってきたともいえる。さらに、柳田の世界民俗学は近年では「グローバル・フォークロア」という観点から、内発的に成熟させた各国各地域のフォークロア研究の比較綜合がなされる段階にいたっている(島村恭則2014「フォークロア研究とは何か」『日本民俗学』278:1-34)。
     このような状況をふまえ、二つの学問分野の名称問題のみに限定して矮小化したり、また両者のちがいを峻別したりしてとじこめてしまうのではなく、どのように乗りあわせが可能なのか、いかに問題を共有できるのかといった視点での議論が生産的ではないかと考えられる。この企画で考えたいのは、制度としての側面ではない。むろん制度的側面に触れざるを得ない部分もあろうが、それらの議論は最小限にとどめ、むしろ方法論の問題として、あるいはその手前にあるものの見方やとらえ方、発想の問題として、さらには対象や問題との身のおき方、〈かまえ〉といった、学の原初的な成り立ちの部分を考えたい。 登壇者たちは、日本の特定のフィールドで調査研究をおこないエスノグラフィックな研究成果を持つと同時に外国研究をおこなっている、あるいはその逆に、日本民俗学に軸足をおきながらも外国での研究生活経験もあり外国研究にもくわしい、いわば「二つのミンゾク学」の体験者である。そこにはどのような共通性と多様性があるのか。その研究経緯から、ローカルな立脚点にたちながらそれがグローバルに協奏する複数的なフォークロア研究のありかたをディスカッションしたい。

    川田牧人(成城大学)
    「私は○○○でミンゾク学をやっている」
     本セッションの皮切りとして、「私は○○○(外国)でミンゾク学をやっている」というフレーズを考える。これは私が日本と外国の両方でのフィールドワークの手ほどきを受けたプロセスで聞かれたことばである。このフレーズをもとに、「二つのミンゾク学」デフォルト問題についてふれ、セッションの出発点としたい。

    梅屋潔(神戸大学)
    「民俗学者とは誰か?」
     私は、民俗学の周辺部で仕事をしながら、決して「民俗学者」とは呼ばれない。「民俗学」の科目を何度も担当しているのにもかかわらず。それでは 「民俗学者」とその他の分水嶺はいったいどこにあるのか? 改めて考えてみよう。

    島村恭則(関西学院大学)
    「「複数形人類学(民俗学由来)」へ:Anthropologies with strong background in Folkloristics.」
     本報告では、近年、活発化している「複数形人類学」をめぐる議論と柳田國男が構想した「世界民俗学」思想との接合について 考える。また、あわせて、「人類学的日本研究」と「民俗学」との〈積極的接合〉はいかにあるべきかについても検討する。

    タイムスケジュール(予定):

     13:30〜14:15 川田牧人「私は○○○でミンゾク学をやっている」
     14:15〜15:00 梅屋潔「民俗学者とは誰か?」
     15:00〜15:45 島村恭則「「複数形人類学(民俗学由来)」へ:Anthropologies with strong background in Folkloristics.」
     15:45~16:00 休憩
     16:00~16:15 小熊誠 コメント
     16:15~17:30 フロア・ディスカッション


    ■主催/共催:現代民俗学会・成城大学グローカル研究センター「社会接触のグローカル研究」プロジェクト

    第25回研究会(終了)民俗学の論点2014―いま民俗学が論じ、取り組むべきこと

    ポスター日 時: 2014年9月28日(日)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所3階 大会議室
    発表者:
     第四期研究企画委員(全員を予定)
    コーディネーター:
    菅豊(東京大学)、島村恭則(関西学院大学)、鈴木洋平(東京都市大学)、塚原伸治(東京大学)、川田牧人(成城大学)




    趣旨:

     現代民俗学会の設立主旨には、①先鋭化(新たな理論の構築)、②実質化(他分野との対話と開かれた議論の土台)、③国際化(国際的な広がりをもった交流)という三点の課題が謳われています。つまり民俗学研究を深め、開いていくことはこの学会のおおきな目標であるといえます。しかしその深めかた、開きかたには各自の立場やアカデミック・ポリシー、指向性、活動範囲などによって、さまざまな戦略が考えられます。とりわけ、②の他分野との対話に力点をおいて開いていくのか、③の国際的交流から開いていくのか、あるいはまた、すでに他分野に開かれた海外の民俗学研究から他分野を〈間接輸入〉すると同時にそのような他分野との協働のありかたそのものを学ぶのか、などなど、多様な道筋が想定されます。所期の目的を達成するためならばどれか一つに限定する必要はなく、その多様性の承認からはじめの一歩が生まれることが予感されます。
     学会活動も第四期に突入するにあたり、その初回の研究会では初志にもどって、このような点を徹底的に討論したいと思います。具体的には、上記の三つの課題を深めうるような研究会のトピック自体をおたがいに持ち寄り、それぞれの意義や必要性、可能性などを議論するのです。どこかで誰かがいつの間にか決めてしまっている研究会トピックではなく、自分たちで考えたい議論したいトピックで研究会を構成するのです。
     といっても、いきなり学会員全員が放談するのでは収拾がつかないかもしれません。このセッションの終わりには、今期の研究会の主要方針がかたまることがゴールなわけで、少しでもそれに接近できることが会の目的です。そのために、研究企画委員各自が、研究会でとりあげるべき課題をもちよってプレゼンテーションします。また今期の新機軸として、次世代会員を中心とした「次世代ユニット」を立ち上げますが、このユニットが研究会を担当するときのトピックを議論する公開ディスカッションもおこないます。これらをふまえ、フロア・ディスカッションによって、今期の7回の研究会と2回の年次大会の大まかな内容を決めていきたいと考えています(下記タイムスケジュール参照)。(文責:川田牧人)

    タイムスケジュールの概要:

     13:00〜15:30 第1部 研究企画プレゼン大会
     (研究企画委員による企画ユニット・プレゼン15×10分)
     15:45〜16:45 第2部 次世代ユニット・ディスカッション
     (次世代担当委員による企画のディスカッション)
     16:45〜17:30 フロア・ディスカッション
     (第1部、第2部にたいして、フロアからのコメントとさらなる討論)


    ■主催:現代民俗学会

    第24回研究会(終了)何ができて、何ができないのか―『無形民俗文化財が被災するということ』からつかみとる課題

    ポスター日 時: 2014年7月26日(土)13:00~
    会 場:東京大学東洋文化研究所3階 大会議室
    発表者:
     高倉浩樹(東北大学教授)
    コメンテーター:
     政岡伸洋(東北学院大学教授)
     木村周平(筑波大学助教)
    コーディネーター:
     菅豊(東京大学教授)・塚原伸治(東京大学特任研究員)


    趣旨:

     災害や戦争といったドラスティックな出来事によって、人間は少なからず変えられる。それはいかにも冷静ぶっている研究者とて、同じである。アメリカの民俗学者・カール・リンダール(Carl Lindahl)も、そのような大きな出来事によって変えられた研究者の一人である。
     中世民俗学、昔話、伝説研究などの口頭伝統研究の権威であった彼は、2005年にメキシコ湾を襲来した二つの巨大ハリケーン(カトリーナとリタ)災害を目の当たりにすることによって、研究者としての姿勢、研究の方向性、手法を大きく転回した。この災害で、被災地ニューオーリンズでは大量の被災者が発生し、西に数百キロ離れたヒューストンまでも押し寄せた。彼はそこで、被災者に物資を配るという直接的な支援活動に携わるなかで、多くの体験談を聞かされる。それがきっかけとなって彼は、被災者が「災害の物語」を自ら「語り」「聞き」「書く」という手法を学びながら自分自身の「物語」を管理することによって、一般社会に報道メディアなどを通じて流された偏見、差別に満ちた語りに対し、自身の声で対抗するという挑戦・「ヒューストンでカトリーナとリタから生き延びる(Surviving Katrina and Rita in Houston、略称:SKRH)」プロジェクトを立ち上げた。その活動は災害前には、リンダール自身にも想像だにできない、研究者の活動の新しい転回であった。
     日本でも、東日本大震災後、「民俗」を取り巻いてさまざまな活動が執り行われてきた。「古臭い」地元の民話にしか興味をもっていなかった民話サークルの人びとが、この災害を契機に「新しい」災害の物語を集め、記録に遺す活動を始めた。さらに、文化庁や自治体、研究者が、被災地での聞き取りやそのアーカイブ作り、民具等の文化財レスキュー、被災地文化を復活させる資金的・組織的支援などを開始した。それらもまた、災害前には想像すらできなかった「民俗」を取り巻く新しい転回であった。
     本研究会では、そのような活動の一つである「東日本大震災に伴う被災した民俗文化財調査」プロジェクトの展開過程を描いた『無形民俗文化財が被災するということ―東日本大震災と宮城県沿岸部地域社会の民俗誌―』(高倉浩樹・滝澤克彦編2014、新泉社)を、震災のエスノグラフィーとして読み込むなかで、民俗学や文化人類学研究者に「何ができて、何ができないのか」という課題について検討する。それは、単なる書誌合評ではなく、震災後の研究者の生身の活動例をもとに、その活動の開始から「成果」の生成までの過程を含めて議論することによって、今後、社会実践に向き合う研究者が顧みるべき共有知を創造することを目的としている。(文責:菅豊)。


    ■主催/共催:現代民俗学会、「新しい野の学問」研究会(科研「現代市民社会における『公共民俗学』の応用に関する研究―『新しい野の学問』の構築―」(代表者:菅豊)/東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける『民俗学』の方法的課題」

    第23回研究会(終了)政治化する「慰霊」―民俗学は応えられるか―

    ※登壇者が変更となっておりますのでご注意ください。
    ポスター日 時: 2014年7月13日(日)13:00~17:00
    会 場:国学院大学渋谷キャンパス2号館102号室
    発表者:
     及川祥平(成城大学民俗学研究所研究員)
     岡部隆志(共立女子短期大学教授)
    コメンテーター:
     西村明(東京大学大学院准教授)
    コーディネーター:
     室井康成(建設資材販売会社勤務)・菅豊(東京大学東洋文化研究所教授)


    趣旨:

     今日ほど「慰霊」というビヘイビアが「政治」の文脈で語られ、その言説が力をもつ時代はないのではなかろうか。ひと頃までは、例えば日本における過去の戦死者に対する「慰霊」のあり方が政治問題化したとしても、自己との無関係性を装うことも可能であった。しかし今日では、「慰霊」はあらゆるメディアを通して多くの人々を巻き込み、人々の属性を超えて“政治化”する様相を帯びている。言を換えれば、現代は「政治化する『慰霊』」という問題に無関係でいることが、難しくなりつつある時代であると言えるのではないか。
    その背景には、電脳空間へのアクセスが容易になり、誰もが政治的言説の生産者たりうることが可能になったという技術的な側面や、この問題をめぐる国際社会の反応に対する日本の再反応など、いくつかの要因が考えられるが、それらに加えて、9・11や3・11の経験を通じて、再び「公」のために個を犠牲にするという死のリアリティが増幅してきた結果、そうした形態での死に対する「慰霊」の問題が、今日の日本においても身近に感じられるようになったということが指摘できるのではなかろうか。
     他方、これまで日本の民俗学では、この「慰霊」という問題に対し、他の学問分野から参照されるほどの数多くの研究成果を蓄積してきた。しかしながら、件の「政治化する『慰霊』」という問題には十分に応えられているとは言えない状況にある。かつて文化人類学との対比の中で半ば自虐的に語られた「資料提供者としての民俗学」という斯学のマイナス面は、やはりこの「政治化する『慰霊』」という問題をめぐっても露呈している感が強い。
     そこで本企画では、「慰霊」という問題に対して豊富な資料を蓄積してきた民俗学が、「政治化する『慰霊』」という状況に対して、いかなる対応が可能なのか、あるいはまた不可能なのかという点について議論したい。

    及川祥平(成城大学民俗学研究所研究員)
    「民俗学は「顕彰」をどう捉えるのか」
     慰霊の政治化を民俗学が対象化し得ずにあるとすれば、その遠因は、死者の取り扱いにおける「顕彰」の側面を軽視してきたことにあると筆者は了解している。近年、記憶論的な人神研究の隆盛化にともない、「顕彰を動機とする神格化」にも関心が寄せられつつあるが、それらは今なお研究対象としては周縁的な位置付けにある。同様の問題は、民俗学的な戦死者祭祀論の多くが「政治とは無縁な民衆の論理」として御霊信仰を強調する一方、その「顕彰」的な側面を近代的かつ非「民俗」的なるものと見なす傾向にもうかがえる(もっとも、歴史上の狭義の御霊信仰は政治的状況と切り離して理解することはできない)。ここには現実の文化事象を民俗と非民俗に弁別して後者を対象から切り捨てていく、民俗純粋化志向とでも名づくべき学の認識論的な偏向が影をなげかけているかのようである。
     「顕彰」という観点は、「異常な死」だけではなく、「特筆すべき生」もまた死者の記憶化を結果する、という事実への気づきをもたらす。それを考察することは、社会的価値・規範や道徳、あるいは権威との、人々のつきあいのあり方を正視することにつながっていく。犠牲を尊び、すぐれた人を讃え、権威に跪拝し、栄誉・名声を欲する意識は、生活者の素朴な幸せの希求と無縁ではなく、また、日常的なふるまいに作用する政治性と関わる。本発表では、以上の認識のもと、民俗学における死者論の偏向を問題化しつつ、「顕彰」が切り拓く議論の可能性を探ってみたい。


    岡部隆志(共立女子短期大学教授)
    「慰霊の心性」
     山折哲雄は、戦時中真面目に歌わなかった「海ゆかば」を戦後になって聞き、「地の底にひきずりこむような哀調が全身を押しつつみ、神経が逆立つ緊張感が襲ってきた」と述べている(『これを語りて日本人を戦慄せしめよ』)。よく知られた「海ゆかば」は昭和12年に信時潔によって作曲されたものである。この歌曲は戦意高揚歌として作られたが、実際は戦死者への黙祷の歌として歌われていく。丸山隆司『海ゆかば-万葉と近代』によれば、ひめゆり学徒隊が死を覚悟したときにこの歌を合唱したという。この歌には情によって死者との境界をひらく力があるように思われる。旋律の力もあるが何よりも「海行かば水漬く屍/山行かば草むす屍」と「屍」が歌われるからだろう。かつて中国雲南省イ族の葬儀を調査したことがある。まず死者の遺体を村の女が取り囲み哭き歌を歌う。この葬儀を最後まで調査した遠藤耕太郎によれば、哭き歌を歌う女達は火葬の場には近づけず火葬は男達が行うという。遺体を通して引き起こされる強い情は日常性の回復のためにはいったん抑圧されなければならない。が、抑圧された死者への情はどこかで立ちあらわれざるを得ない。日本で多く建立される慰霊塔はそのような情をかき立てる依代でもあるだろう。「海ゆかば」で歌われる屍にも依代としての強い意味作用があったのではないか。以上のような考察を通して、慰霊の背後にある古代的とも言える心性について考えていきたい。


    ■主催:現代民俗学会・日本民俗学会

    第22回研究会(終了)社会的排除に民俗学はいかに向き合えるのか――排除の日常・文化を記述する術を探って

    ポスター日 時: 2014年3月29日(土)13:00~
    会 場:成城大学3号館2階 321教室
    発表者:
     今野大輔(成城大学民俗学研究所)
     飯倉義之(國學院大學)
    コメンテーター:
     政岡伸洋(東北学院大学)
     柏木亨介(蔚山大学校)
    コーディネーター:
     今野大輔(成城大学民俗学研究所)・及川祥平(成城大学民俗学研究所)

    趣旨:

     民俗学は経世済民の学であり、現代的問題の解決を目指す学問である。そのような自己規定のもと、社会への成果の還元、あるいは研究課題の現代性ということを、民俗学者は常に意識してきた。しかし、にも関わらず、現代日本に累積する社会的課題を見渡すかぎり、民俗学には同時代の問題状況に対して発言し得るだけの蓄積がない場合があまりにも多い。「社会的排除」もそのような問題の一つである。国際社会においては、あらゆる人権の侵害状況の克服が課題視されている。現代日本社会においても無数の排除的状況が多様性・複雑性を増しながら生産され続け、問題化していることは周知の通りである。
     もっとも、人々の生活に寄り添ってきた民俗学が、この種の問題に無関心であったわけではない。過去からの拘束性や文化的問題に起因して現在に顕在化する排除や差別に対し、民俗学のデータ蓄積は、その問題性や無根拠性を実証的に明らかにし得る点できわめて重要な意義をもつ。一方で、当該領域に対する民俗学のスタンスの消極性が問題視されていることも事実である。『日本民俗学』252号において企画された特集「差別と民俗」は、学会としては初の差別・排除の主題化であり、この方面の議論の活発化が期待された。しかしながら、この特集号以降、6年もの月日が経過しようとしているが、民俗学における当該領域の研究が目覚ましく前進したとは言い難い。民俗学が社会的排除と向き合う上では、これまでの成果をふまえた上で今後の議論の方向性をさぐる場をもうける必要があるのではないだろうか。
     有り得る方向性の一つとして、本研究会では、排除を導く様々な差別的偏見(事実誤認に基づく/を導くフォークロア)に照準する可能性を検討する。それがどれほど無根拠であっても、人々をカテゴリー化し、ステレオタイプにあてはめ、そこに特殊性を幻視するような言説が、コミュニケーションの中でリアリティを獲得し、人々の意識を拘束してしまうことがある。この排除的な日常生活の局面を民俗学的に見据える作業、すなわち、「人はどのように、どのような排除・差別を行なってしまうのか」ということを記述的に明らかにする道筋は、幻想が生きながらえてしまう現象ないし状況を相対化することに寄与し得るのではないだろうか。
     以上の趣旨に基づく本研究会では、登壇者として民俗学的見地から特にハンセン病差別の文化的要因を主題として議論を展開してきた今野大輔氏を招き、民俗学における差別研究の状況を批判的に整理していただき、自身の研究構想とともに差別研究に残されている課題を鮮明化していただく。また、民俗学の中でも〈口承〉研究ないし「世間話(日常の語り)研究」から飯倉義之氏を迎え、特に日常的コミュニケーションの中に顕在化する差別的眼差しや排除の論理を民俗学が記述することの可能性を検討していただく。
     以上により、社会的排除という今日的で大きな課題に、民俗学はどのように向き合っていくことができるのかを探りたい。

    ■主催:現代民俗学会

    第21回研究会(終了)パブリック民俗学とパブリック人類学の対話可能性

    ポスター 日 時:2013年12月15日(日)13:00~
    場 所:東京大学東洋文化研究所・3階第一会議室(本郷キャンパス)
    発表者:
     発表1:菅豊(東京大学東洋文化研究所教授)
     「public folkloreから公共民俗学へ―人びとの、人びとによる、人びとのための知識生産と社会実践」
     発表2:関谷雄一(東京大学大学院総合文化研究科准教授):
     「応用人類学と公共人類学―開発援助と被災者支援にみる情報共有の重要性と難しさ」

     コメンテーター1:俵木悟(成城大学文芸学部准教授)
     コメンテーター2:河合洋尚(国立民族学博物館助教)
     コーディネーター:河合洋尚、菅豊

    趣旨:

    近年、公共性論、市民社会論が席巻し、学問と社会との連携を求める声の高まりを受けて、「公共哲学」「公共社会学」「公共考古学」「公共民俗学」「公共人類学」など、ディシプリンに「公共」の文字を冠する学問分野が数多く登場している。しかし、互いの理論・方法論についての対話は、これまでほとんどなされてこなかった。とくに、民俗学と人類学(民族学)は、いずれもフィールド(野)における聞き取り調査を基盤としており、かつては同じ「ミンゾクガク」として歩みをともにしてきた隣接分野であったものの、両者の対話はまだなされていない―むしろ遠ざかっているようにもみえる―。人類学は海外の研究を主眼とした分野であると認識されがちであるが、民俗学でも海外研究は進められているし、何よりも社会との連携を求められる「公共人類学」では日本国内の研究が主要になっている。では、こうしたなかで「公共民俗学」と「公共人類学」は、どのような点で異なっているのだろうか。また、互いの経験をどのように参考とすることができるのだろうか。本シンポジウムは、これらの問題を起点に、両者の対話可能性(もしくは不可能性)について議論することを目的としている。なお、ここで「公共〇〇学」ではなく、「パブリック〇〇学」という用語を使うのは、日本語の「公共」と英語の「パブリック」とではニュアンスが異なるためであり、両分野が「パブリック」のあり方をどのように捉えていくのかという問題も議論の焦点となる。

    主催/共催:日本文化人類学会課題研究懇談会、現代民俗学会、東アジア人類学研究会、「新しい野の学問」研究会(科研「現代市民社会における『公共民俗学』の応用に関する研究―『新しい野の学問』の構築―」代表者:菅豊)

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    第20回研究会(終了)生活環境主義とは何か?―民俗学の思想を問い直す

    ポスター日 時:2013年11月16日(土)13:00~
    場 所:東京大学東洋文化研究所・3階大会議室(本郷キャンパス)
    登壇者:
     基調講演者:
      鳥越皓之(早稲田大学教授)
     コメンテーター:
      宮内泰介(北海道大学教授)
      菅豊 (東京大学教授)
     コーディネーター:
      菅豊室井康成(東京大学特任研究員)

    趣旨:

     生活環境主義とは、被害構造論、受益圏・受苦圏論、社会的ジレンマ論などとともに、日本の環境社会学において発展した重要な理論で、社会学者であり民俗学者でもある鳥越皓之氏や、嘉田由紀子氏らによって、1970年代末から提唱されてきた理論である。それは「ゆるやかなイデオロギー」であり、結果、「当該社会に居住する人々の生活の立場」という基本的な立ち位置から、地域住民の生活現場に立ち現れる環境問題を分析・考究する知識生産の指針となり、また、その現場で環境問題の解決を模索する社会実践の指針となってきた。
     ディシプリンの壁を容易く乗り越え、民俗学と社会学を行き交う鳥越氏の方法や理論は、こと民俗学に限っては過剰なまでに看過されてきたように思えてならない。同氏らが提唱してきた生活環境主義が、実は柳田国男の「民俗学」にこそ、その淵源が求められた「民俗学の思想」であることを、残念なことに多くの民俗学研究者は知らない。また、その理論が社会学のみならず、現代社会のさまざまな場―政治も含め―で大きな影響力をもってきたこと、そしてそのゆるやかなイデオロギーが、文化をも巻き込んだ「生活主義」という形で、民俗学の方法として昇華される可能性があることにも、惜しいことにおおかたの民俗学研究者が気がついていない。
     本研究会では、生活環境主義のオピニオン・リーダーともいえる鳥越皓之氏をお招きし、いまだ民俗学で十分に検討されていない「民俗学の思想」=生活環境主義の生成過程、具体的な意味内容、その有効性と課題、そして「生活」を基盤とし優先するこの思想の民俗学における意義について基調講演をしていただく。それをベースに、鳥越氏と参加者とで「民俗学の思想」を問い直す議論を深めたいと考えている。(文責:菅豊)。

    主催/共催:現代民俗学会、「新しい野の学問」研究会(科研「現代市民社会における『公共民俗学』の応用に関する研究―『新しい野の学問』の構築―」(代表者:菅豊)/東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける『民俗学』の方法的課題」

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    第19回研究会(終了) 商店街は滅びるのか?―ポスト・「三丁目の夕日」時代のアクチュアリティ―

    サンプル日 時:2013年9月28日(土)13:00~
    場 所:東京大学東洋文化研究所・3階大会議室(本郷キャンパス)
    登壇者:
     発表者:
      新雅史(学習院大学非常勤講師)
       「商店街とはいかなる空間なのか」
      竹川大介(北九州市立大学教授)
       「メディア=媒体としての市場―世界と私の間にあるものを考える―」
     コメンテーター:
      塚原伸治(日本学術振興会特別研究員/東京大学東洋文化研究所)
     コーディネーター:
      塚原伸治菅豊 (東京大学東洋文化研究所教授)

    趣旨:

     商店街に魅力を感じる人は今なお多い。映画版「三丁目の夕日」が大ヒットしたことは記憶に新しいが、それが昭和30年代ブームあるいは昭和レトロブームと呼ばれるような現象と同様の、ノスタルジックな欲求に支えられたものであったことは間違いない。商店街の活力が失われ、「シャッター商店街」が目立つようになっているという現状との対比もあり、失われつつある(あるいは失われた)かつての価値が商店街という場に過剰に与えられてきた。
     このような「三丁目の夕日」幻想、あるいはそれを支えるノスタルジーに対して、私たちが自覚的であることは常に重要である。しかし、実際の現場に今いちど目を向けてみれば、商店街の現実がすでにその先に進んでいることも、また理解されるであろう。当事者によってすでにじゅうぶん自覚化され、資源化されている「商店街」を取り巻く言説を偏ったものとする、民俗学のフォークロリズム批判の視点のみでは、現場をアクチュアルに描き尽くすことはできない。ましてや、「下りたシャッター」を再び「上げる」ことなどできるはずもない。
     いまや商店街という場には、商店街で商いを営む人びと以外にも、行政や専門家、コンサルタントなど、様々な立場とスキルをもつアクターがすでに深く入り込んでいる。そのような場で、既存の関わり方とは異なる方法を意識するふたりの研究者―社会学者と人類学者―が、知識生産と社会実践に関わっている。彼らは、大文字の学知による「商店街の活性化」とは異なる道筋の可能性を模索している。
     おそらく、彼らがその先に採用する方法は、商店街の衰退という「問題」を所与のものとし、その「問題解決」の処方箋を簡単に発行するようなものではなく、フィールドの人々に寄り添い、人びととの関わりのなかで課題を発見し、その課題へと向き合う複雑な応答と、多声的な解を人びとの動きのなかに探し求める民俗学的方法と重なり合うのであろう。本研究会では、このような「三丁目の夕日」幻想批判を越えた現実について、商店街で活動するふたりの研究者の実践をもとに、商店街のおかれた現実と、進み行く将来とを展望する。そして、さらに、その具体的な検討から、民俗学的手法の彫琢にむけた議論へと展開したい。

    新雅史(学習院大学非常勤講師)
    「商店街とはいかなる空間なのか」
     商店街はどのような空間なのか――それは、素朴であるように見えて、答えるのがやっかいな問いである。一定程度に商店が集積することを指すならば、スラムもそれに当てはまるし、ひとつの建物にテナントが集積しているショッピングモールも商店街となるだろう。結論先取でいうならば、商店街はスタティックな定義がむずかしい規範的構築物である。以上の観点から、商店街がどのような文脈から言説化され、それが国土に埋め込まれ、かつそれが主体化していったかを議論する。


    竹川大介(北九州市立大学教授)
    「メディア=媒体としての市場―世界と私の間にあるものを考える―」
     北九州市の生鮮市場に「大學堂」という店舗を持って5年が過ぎた。学生たちと週5日店を開けている。2階にはギャラリーである「屋根裏博物館」や、宿泊ができる「大王の間」も作った。そこが市場だから商売もする。投げ銭音楽ライブもする。旅人が立ち寄る。このごろは縁台将棋がはやりはじめた。つまり世界と私をつなげるメディアである。発表では、ここで実際になにが起きつつあるのかをつまびらかに報告するので、この現象をなんと呼べばよいのか教えてほしい。


    主催/共催:現代民俗学会/「新しい野の学問」研究会(科研「現代市民社会における『公共民俗学』の応用に関する研究―『新しい野の学問』の構築―」(代表者:菅豊・東京大学東洋文化研究所教授))/東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける『民俗学』の方法的課題」

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    第18回研究会(終了) 現代文化をどう捉えるか―金益見氏の調査方法から学ぶ―

    サンプル日 時:2013年7月27日(土) 13:30~18:00
    場 所:東京大学東洋文化研究所・3階大会議室(本郷キャンパス)
    登壇者:
     発表者:金益見(神戸学院大学人文学部専任講師)
     コメンテーター:加賀谷真梨(国立民族学博物館機関研究員)
     コーディネーター:室井康成(東京大学東洋文化研究所特任研究員)・菅豊 (東京大学東洋文化研究所教授)

    内容紹介:

     民俗学の基礎的な営為の一つに民俗誌の作成がある。これは、対象とする地域の民俗文化の調査・分析・成文化といった過程を経て成立するものであるが、今日、こうした営為は民俗学の専売特許ではなくなった。いわゆるアカデミック民俗学の訓練を受けていない個人や市民団体・郷土研究サークルが、従前の民俗学が世に問うてきたものと比しても遜色ないか、あるいはそれ以上の高い水準の民俗誌を編み上げることも、もはや珍しいことではなくなった。そうなると、アカデミック民俗学の独自性とは、いったい何なのか、自問せざるを得ないであろう。
     一方、現代文化、すなわち世相の移ろいを同時代的に捉え、民俗誌としてまとめてゆくことも、かつての民俗学が担った重要な役割であった。例えば宮本常一は、民俗学の主たる調査対象地域が農山漁村であった時代に、戦後の新憲法の理念や高度経済成長が人々に与える影響を、その生活様式の変化に焦点を当てることでダイナミックに記述していった。その成果は、等身大の同時代史として社会に受け入れられ、民俗学のみならず、その外部に対する影響力も少なからぬものがあった。しかし残念ながら、現在の民俗学は、宮本ほどインパクトのある成果を社会に対して提示できているとは言えない。
     そうした中、2008年に、当時大学院生であった金益見氏が著した『ラブホテル進化論』(文春新書)が刊行された。同書は、従前の人文・社会科学研究で対象化されてこなかった課題を選択したという目新しさで大きな話題を集めたが、何よりもその成果は、広義の「貸間」であるラブホテルの名称や意匠の変遷史から男女間の力関係や性愛をめぐる羞恥感情の変化を読み解いたことや、その設立数の増減の背後に高度経済成長期に起った家族構成の変化や住居の間取りの一般化を看取するなど、多くの発見を獲得し、さらにこれを日本文化論の領域にまで高めたことであった。同書により、それまで未見であった事実が明らかになったケースも多く、加えて私たちの身辺にある細かな事柄に着目し、課題化するといった姿勢は民俗学にも通じるところがあり、示唆に富む成果であると言える。
     そこで今回の研究会では、同書の著者である金益見氏を発表者に迎え、同書にまとめられた研究で金氏がとった調査手法という問題に焦点を絞り、金氏自身の調査体験談を踏まえながら語ってもらうことにした。そして一連のラブホテル研究を通じて金氏が獲得した視点や調査手法が、金氏が現在取り組んでいる夜間中学を対象とした識字問題に関する研究やインタビュー論へと、どのように結び付いているのかという点について発表をお願いし、現代文化を捉える上で有効な視点や調査手法とは何か、そこから浮かび上がってくる問題とは何かを、金氏との対話の中から考えてゆきたい。

    主催/共催:現代民俗学会/東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける『民俗学』の方法的課題」

    金益見氏の発表趣旨:

     私は学生時代、江戸時代から現代に至るまでの貸間産業の変遷、つまりラブホテルがラブホテルと呼ばれるようになるまでどういう経緯があったのかということを調べました。先行研究がほとんどなかったため、現場に行って調べるという方法しかなかったのですが、実際のところラブホテルに調査に行っても門前払いが続きました。そんななか、どうやって業界に入りラブホテルを調査することができたのか?今回は、研究の中身ではなく、方法をお話したいと思います。またラブホテル研究後に発表した漫画家さんのインタビュー、夜間中学校の取材など、現場に行って人に話を聞き何かを掴んで帰ってくるにはどうしたらいいのか、これから何かを研究したいと考えている学生さんにも届くようにお話できればと思います。

    金益見氏プロフィール:

    金益見(きむ・いっきょん)
     神戸学院大学人文学部専任講師。博士(人間文化学)。1979年大阪府生まれ。在日コリアン3世。著書に『ラブホテル進化論』(文藝春秋/2008年/第18回橋本峰雄賞受賞)、『サブカルで読むセクシュアリティ―欲望を加速させる装置と流通』(共著/青弓社/2012年)、『性愛空間の文化史―「連れ込み宿」から「ラブホテル」まで』(ミネルヴァ書房/2012年)、『贈りもの 安野モヨコ・永井豪・井上雄彦・王欣太 ~漫画家4人からぼくらへ』(講談社/2012年)『やる気とか元気がでる えんぴつポスター 』(文藝春秋/2013年)ほか。

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    第17回研究会(終了)『介護民俗学』という問い―六車由実氏との対話

    サンプル 日 時:2013年3月16日(土) 13:00~17:30
    場 所:東京大学東洋文化研究所・大会議室(本郷キャンパス)
    演 題:介護民俗学の実践とその反響
    登壇者:
     発表者:六車由実(民俗研究者/デイサービスすまいるほーむ管理者・生活相談員)
     コーディネーター/討論者:
         岩本通弥(東京大学)
         山泰幸(関西学院大学人間福祉学部)

    ■主催/共催:現代民俗学会/科研基盤研究(B)「民俗学的実践と市民社会―大学・文化行政・市民活動の社会的布置に関する日独比較」/東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける『民俗学』の方法的課題」

    内容紹介:

     2012年3月に出版され、各方面で大きな反響を呼んでいる、六車由実著『驚きの介護民俗学』(医学書院)を、著者も交えて、改めて「民俗学」の問題として、その「方法」に引き付けて議論する。同書は、今日的な課題である介護や福祉のあり方を鋭く問いつつも、「驚き」という感受性豊かな筆致によって、極めて優れた(エスノグラフィックな)読みものとして、すでに高い評価を受けている。主要な新聞・雑誌の書評欄に数多く取り上げられており、内容の紹介は省略するが、研究会参加者には、同書のほかに、日本記者クラブ主催の「著者と語る」での会見(7月25日、You-tubeで公開中)や、立命館大学大学院の先端総合学術研究科公開企画の書評セミナー(5月25日)の元になったであろう、上野千鶴子氏の書評「回想法でも傾聴でもなく、そして民俗学でもなく」(共同通信4月1日配信)などを合わせ読んでおかれることを、参加の前提として要望しておきたい。なぜなら本研究会では、介護現場の実態などに関しては、それらを参照いただき、あくまで民俗学としての「問い」に、論議を集中させたいからである。
     六車氏は「介護民俗学」という命名には、2つのメッセージが込められていることを、随所で繰り返し述べている。一つは民俗学で培ってきた経験や知識・技術が介護現場に役立つ可能性であり、もう一方は民俗学や民俗学者に対するメッセージである。例えば、聞き書きとは何かをはじめ、本書は民俗学的な論点が多岐に渡って鏤められている。埋もれた近代庶民のなりわい=「忘れられた日本人」の発見・掘り起こし・記録化の問題をはじめ、回想法の問題点や聞き書きとの相違、また民俗学における実践性のあり方等々、多種多様な視角が盛り込まれているが、今回の研究会では、本書の帯にも「語りの森へ」という第4章のフレーズがあるように、①語りと聞き書き、②身体に刻まれた記憶、③民俗学的実践性の3点に限定して討議を尽くしたい。「語り」に焦点をあてることで、民俗学のあり様や、なぜ民俗学は「聞き書き」という手法を用いてきたのか、また民俗学とは何なのか、著者六車氏の民俗学に対する「思い」を中心に語っていただいた上で、①と②に関する2名のコメンテーターの質問、および会場からの質疑応答で出てくるであろう③について、深く追究していきたい。
     「聞き書き」はおそらくインタヴューや取材とは異なるものだろうし、最近の質的調査法を用いた社会学やナラティヴ・アプローチを駆使する質的心理学などと、どこが何が違うのか。その違いをもたらすものは何なのか。また人が自らの人生を語るとはどういうことなのか。その固有の経験を人に語り伝える、あるいは伝えたいという行為や心持ちとはいったいどういうものなのか。民俗学は話し手の経験や想いを聞き取る学問だと自ら称してきたものの、彼ら/彼女らが本当に語りたいものを塞いできてしまった反省など、討議を通じて明確化したい。
     特に①に対する討論者は、本書が多くの読者を惹きつけたのは、介護される人びとに寄り添い、その「声」を上手く活かしただけでなく、叙述の主語があくまで「驚き」の主体である六車氏本人であったこと、従前の民俗学に多かった中途半端な客観主義を排除したところに、読者に「驚き」=面白さやリアリティを伝える、一つの仕掛けがあったと考えている。著者の「感じたるまま」という間主観性を、加減せずに叙述した点は、現場と研究の立場との往還運動で生まれた、現象学的記述(エピソード記述)そのものであった可能性を問い掛ける。
     ②に対する討論者は、語りと身体的記憶との関係性を問い直す。一般に「語り」を扱う研究者は、「語り」の信憑性を保証できる語り手を暗黙のうちに想定してきたのではないか。ところが、六車氏が聞き書きの相手として見出したのは、従来の想定を超えた語り手であり、語り手の発見によって、彼ら彼女らの語りから予想もしていなかった過去の記憶=歴史が明らかにされるのである。その意味で、そこには二重の「驚き」がある。六車氏は、さらに語りだけではなく、身体的記憶へと対象を拡張していくが、そこで見出される身体的記憶と語りとはいかなる関係性にあるのか。またそれらを研究者が理解しようとする場合にどのような難しさがあり、両者にはどのような違いがあるのか。そもそもそこで得られた理解には、介護と民俗学、そしてこれからの民俗学にとって、どのような意味があるのかについて、議論したい。
     以上のような「介護民俗学」という試みを、民俗学はどのように受け止めるのか。あるいは介護民俗学は、民俗学に独自の潜在的な可能性を掘り起すものなのか。民俗学の実践性の方向を示すものなのか。著者の六車由実氏を迎えて、活発な議論を交わしたいと考えている。

    発表要旨:発表タイトル「介護民俗学の実践とその反響」

    民俗研究者/デイサービスすまいるほーむ管理者・生活相談員 六車由実

     拙著『驚きの介護民俗学』を刊行して以来、多くのメディアで取り上げられ、また一般読者や様々な分野の専門家からも評価していただいている。多くは、介護や福祉の現場での聞き書きや民俗学的視点・方法の有効性を評価するものであったが、今回本学会において介護民俗学をテーマとして取り上げていただくことになり、拙著でのもう一つのメッセージである「民俗学にとっての介護現場のもつ意味」について、民俗学の研究者のみなさんと初めて議論できる場ができたことに、心からの感謝と大きな期待を抱いている。
     私は初めから民俗研究をする目的で介護の世界に入ったわけではない。ところが、介護現場での利用者との具体的な関わりが、あるいは介護現場で実践されるケアへの率直な疑問が、私に、自分が民俗研究者であることを自覚させ、それまで培われてきた民俗学の方法や関心のあり方の意味を改めて問い直させることとなったのである。そして、私は、介護現場で介護職員であり民俗研究者として実践し続ける覚悟を決めた。
     拙著の書評で、上野千鶴子氏は、民俗学者が研究目的で介護現場へ関わることへの懸念を述べているが、私はそれでも敢えて、民俗を研究する多くの者が民俗学的関心をもって介護現場へ入ってくることを望みたい。それは、介護現場が民俗資料の宝庫であるということばかりではない。民俗学者の関わりが、閉鎖的な介護現場―しかし本来は多様な生き方をしてきた多様な利用者がいる介護の世界を社会へと開いていくきっかけになるだろうと思うからだ。そして、民俗学者自身にとっては、予定調和的には終われない介護現場における聞き書きによって、自らの行う民俗学研究の方法や目的、意味の問い直しが促されるとともに、新たなテーマや方法の発見につながる可能性も秘めていると考えるからだ。
     発表では、このような関心のもと、介護現場での私の実践とその反響、そしていくつかの展開を具体的に紹介していきたいと考えている。

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    第16回研究会(終了) private sector/public sector民俗学の経験との対話

    サンプル 日時:2012年12月1日(土)13:00~18:00
    場所:京都リサーチパーク (京都市下京区中堂寺南町134番地)4号館ルーム2
    表題:private sector/public sector民俗学の経験との対話-これからの「公共民俗学」のために―
    発表者:
     山路興造(元京都市歴史資料館長)「私と私的民俗学」
     植木行宣(元京都府教育委員会文化財保護課)「民俗文化財の研究と保護をめぐって」
     蘇理剛志(和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課)
            「民俗学知の活用と民俗芸能―紀州東照宮祭礼・和歌祭の御船歌を事例に―」

    ■コーディネーター:俵木悟(成城大学文芸学部准教授)・菅豊 (東京大学東洋文化研究所教授)
    ■主催/共催:公共民俗学研究会/現代民俗学会/京都民俗学会/科研基盤研究(B)「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」

    趣旨

     およそこの50年間、民俗学が大勢において大学の学問になってきたなかで、芸能・祭礼研究は、大学に属さない多くの民間の研究者、あるいは公共部門の研究者が主導的な役割を果たしてきた領域である。その背景には、比較的早くに芸能や祭礼が「文化財」として行政に組み込まれ、また同時に観光、地域振興、教育などの資源として社会的な意義を見いだされてきたことがあると考えられる。いわば社会的な需要の多い研究領域であり、それに応じて研究者としての多様な関わり方があり、かつその多様な関わり方が、行政機関や公益財団の職員、博物館・資料館の学芸員、各種の研究機関の研究員、さらには調査や記録作成事業に携わる監修者や調査員などといったかたちで制度化され、保証されてきた。このように組織化された体制によって、全国的に個別事例の報告が蓄積され、それを資料とする実証的な研究がなされてきたことは、芸能・祭礼の民俗学的研究の特徴であり、ひとつの達成である。
     しかし一方で、芸能・祭礼研究と社会との接点は文化財という制度のみであるかのような風潮も生じ、生活実践から遊離して「文化財学」化したという批判を受けるのも、故無しとはしない。関わり方は多様でありながら、その多くが文化財を中心とする国家の施策のもとに編成されてきた、あるいはそれこそが研究者に求められる役割であると考えられてきたとも言えるであろう。
     これからの公共民俗学では、こうした「公」的なあり方をふまえつつ、すべての人に開かれ、誰もがそれを利用し、実践し、批判することができる「共」的な学問のあり方と接合していくことが求められている。その実現を目指して今回のワークショップでは、民間の研究者として、また公共機関の研究者として豊富な経験と実績をもつ2名、そして今まさに制度と地域社会との接点で活動する1名に、それぞれの立場で行ってきた研究の意義や成果、そしてその限界について発表していただく。この経験を共有し、対話することを通して、これからの公共民俗学の可能性を考えてみたい。

    山路興造(元京都市歴史資料館長)
    「私と私的民俗学」

    【要旨】
     私は民俗学の研究者ではないと思う。民俗芸能学会代表理事と芸能史研究会代表委員を、すでに15年近く勤めているので、民俗芸能と日本芸能史についてはそれなりの研究を積み重ねてきた思いはある。また東京教育大学の史学方法論の教室に潜り込んで、民俗学の研究方法を模索したし、私自身の調査フィールドを大切にし、石見在住の民俗研究者牛尾三千夫を師と仰いで、その方法論を体得もした。
     しかし、私の興味は、各時代の民衆が喜怒哀楽を託し、生活の糧とした「芸能」の歴史にあった。その意味では私の興味は歴史という縦軸にあり、現在という視点で広がりを考える横軸に対する興味は薄い。そのことに気がついた頃、京都の西田文化史学の存在を知り、民俗芸能研究の師であった本田安次の元を離れて京都に移住した。といっても、学問体系の一部に組み込まれた歴史学に潜り込んだわけではない。また芸能史といっても、私の興味は、現在に伝承された古典芸能ではなく、民衆が熱狂してやがて捨て去った芸能の姿を、歴史学・民俗学・絵画史・日本文学など、既成の学問体系に捉われることなく考えることであり、それ故に民間研究者として今日に至っている。

    植木行宣(元京都府教育委員会文化財保護課)
    「民俗文化財の研究と保護をめぐって」

    【要旨】
     私は20年余にわたり京都府で無形と民俗文化財の保護行政にたずさわってきた。着任した1967年当時は、両部門ともにいまだほとんど認知されておらず、どこに何があるかといった基礎的データーさえ皆無の状態であった。当然ながら保護のためのマニュアルなどは存在せず、文化庁に問いをなげても実際的な指導助言は期待できなかった。
     担当者として呼ばれたのは、私が日本の芸能文化史を研究していたからである。つまりは即戦力と期待されたわけであり、まずは祭や民俗芸能についての基礎的調査をすすめつつ、民俗の保護はどうあるべきかを模索することになった。しかし、その教材である歴史や民俗研究から具体的に役立つ成果は得られなかった。天下の祇園祭についてさえ、山鉾についての具体的な歴史的研究はなく、民俗学研究は折口の依代説による意味論に終始しほとんど思考停止状態にあり、自ら臨床的研究を行なわねばならなかった。
     国の文化財保護施策は指定して保護をはかるのが基本である。しかし、民俗の評価は資料的価値が基本であり、資料としての絶対的価値は等価である。記録を作成してその保存をはかる措置は民俗の本質に基づくものであるが、保存の名に値する記録作成についての議論はいまもさして進んでおらず、映像による記録などは手探りの域をでない。
     文化財保護に関わる研究成果は行政の現場における臨床的研究に負うところが多大である。ところがそうした取り組みについては、民俗学研究者は概して冷淡でその成果も民俗学研究に反映されているとはいえない。
     地域社会にとって祭りや芸能はそれぞれにかけがえのない伝承である。それを資料的価値が低いからといって切り捨ててはならない。京都府が最期まで、国が提示したモデルによる条例を制定せず、「未指定文化財」保護への財政措置や指導助言を行ない、条例制定に当たっては現状から議論を積み上げ、ランキングではなく登録制度による面的保護を重視したのはその故である。
     今回は、そのあたりをふり返りつつ、いま民俗文化財が直面している諸問題について考えてみたい。

    蘇理剛志(和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課)
    「民俗学知の活用と民俗芸能―紀州東照宮祭礼・和歌祭の御船歌を事例に―」

    【要旨】
     和歌山県には、民俗学を研究・専攻できる大学や研究機関がなく、そのため県下の民俗学研究は、長年にわたり外部の研究者や郷土史家らの個別研究によって進められてきた。柳田的にいえば、和歌山県下の民俗研究は「旅人の学」と「同郷人の学」による成果といえる。
     パブリック・セクターの民俗学研究者は、いわば「寄留者の学」といわれる立場の一つの存在形態に位置づけられる。しかし、そこで従事する仕事は多岐にわたり、文化財保護行政や博物館業務で自らに課された本来業務としての学問的な専門性以外に、それとはまた別の次元において自らがもつ「民俗学知」というべき経験や知識が求められたり、それを活かす機会を与えられたりすることが多い。
     兵庫県神戸市生まれの私は、縁あって和歌山県で文化財保護行政の担当者として奉職したが、2010年には、紀州東照宮の祭礼である和歌祭で歌われた「御船歌」を30年ぶりに復活させ、民俗芸能の実演者として祭りに参画することになった。  御船歌復活の企ての過程では、こうした自らの仕事と研究および趣味の領域にわたる知的好奇心を元に、有機的な出会いの場が生まれ、相互の交流や企画提案、また自らの表現・実践など、「民俗学知」を意識的に活用した結果として、人々に直接的に喜ばれる社会的実践へと繋がっていった。
     発表では、これまでの公的また私的な自分の経験を通して、芸能・祭礼の研究者と地域社会や実演者との間にある一線のあり方や、フィールドの捉え方、その関係性について、今後の一つの有り様を示すことが出来ればと思う。

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    第15回研究会(終了) 現代生殖医療を民俗学はどのように考えるのか

    サンプル 日時:2012年9月8日(土)14:00~
    場所:お茶の水女子大学生活科学部会議室(大学本館130室)
    表題:現代生殖医療を民俗学はどのように考えるのか
    発表者:
     マルセロ・デ・アウカンタラ(お茶の水女子大学)「家族法学からみた現代生殖医療」
     宮内貴久(お茶の水女子大学)「生殖医療の現状とエコー写真」
    コメンテーター:
     白井千晶(早稲田大学)

    ■コーディネーター: 刀根卓代・宮内貴久
    ■共催:お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター、女性民俗学研究会

    趣旨

     1978年7月25日にイギリスで初めて体外受精が成功した。
     その前日の朝日新聞三面には「近づく『試験管ベビー』の誕生」、「真剣に生命・道義論」「奇形・異常児を懸念」「科学の奇跡 『だが次に何が』…」という戸惑いを感じさせる見出しが掲載されている。
     翌日の体外受精成功を伝える一面には「初の体外受精児誕生」「英の病院 帝王切開で女子」「2600㌘、母子とも順調」「医学・倫理 賛否両論の中」「対応迫られる科学者たち」という見出しが掲載されている。十面には「果たして医学の勝利か」という大見出しがあり、「不妊の苦しみ救う」「養子の方が自然だ」「こわい奇形の発生」「賛否の声さまざま」と識者のコメントが寄せられている。さらに「せつない不妊の人 医学研究は勇気も必要」という記事が掲載され、賛否両論の意見が紹介されている。それに対して十一面はステブトー博士・エドワーズ博士の記者会見の写真と「元気に“世紀の赤ちゃん”」「不安吹っ飛ばす産声」「過去四百例すべて失敗」「一時は生命の危機」「両医師、12年地道な研究」という見出しで、成功するまでの経緯が伝えられている。
     日本における体外受精は、1983年に東北大学医学部で成功したのが始まりである。1991年12月には顕微受精の臨床応用を日本産婦人科学会が承認される。1992年4月には宮城県のスズキ記念病院で顕微受精が成功し、受精率は100%となった。
     これまで民俗学が明らかにしてきたように、子が得られない場合には養子を取る、取り親取り子のように未成年の男女の子供を養子に迎えて成人すると結婚させてイエを継がせるなど、必ずしも血縁が必要とはされてこなかった。
     1990年代の朝日新聞やアエラの記事によれば、生殖医療を行った産婦のカミングアウトの難しさ、人工授精で生んだ母親たちが様々な悩みを相談するサークルを作ったなど、1990年代初頭は人工授精により子供を得ることについて根強い偏見があった。「養子の方が自然だ」という社会的意識が強かったと考えられる。そうした状況下で、生殖医療を行った産婦のカミングアウト、親から生殖医療によって生まれた子供へのカミングアウトの難しさは、一部を除いて困難な状況にあった。親や子供はどのように考えていたのだろうか。彼らの語りを聞く必要があろう。
     1990年代後半になると、「人工授精」という言葉よりも「不妊治療」という言葉を耳にするようになったという個人的な印象がある。朝日新聞では1995年1月14日の記事で「不妊治療」の用語説明をしていることから、1995年には「治療」が定着しつつあったと推定される。
     人工授精で生まれる子供は増加していく。1998年の出生数は1,203,150人、人工授精出生者数は9,224人( 0.77%)で129人に1人が人工授精で生まれていた。それが、2008年出生数は1,091,156人、人工授精出生者数は20,494人(1.88%)で53人に1人が人工授精で生まれたことになる。わずか10年で倍増したのである。1990年代初頭には「養子の方が自然だ」という社会的意識だったのが、2008年には53人に1人が人工授精で生まれるという状況に変化したのである。「人工授精」から「治療」。1990年代に我々の意識はどのように変化したのだろうか。
     不妊治療では、1948年から慶応大学において非配偶者間人工授精(AID)が行われてきた。AIDとは、①夫以外の男性の精子と妻の卵子を体外で受精させて、その胚(受精卵)を妻に移植する、②妻以外の女性の卵子と夫の精子を体外で受精させて、その胚(受精卵)を妻に移植するの二通りがある。日本では提供者は匿名とされている。これまでAIDで10000人近くが生まれてきたとされる。AIDではどちらかの親と血縁関係はあるが、ドナーは匿名であり知ることができない。
     2000年代からAIDで出生したことを知った子供たちが、ブログなどでその心境を語り始めている。例えば、既に結婚年齢に達した子供たちが、異性が血のつながった兄姉かもしれないので恋愛できない、片親が不明なのは自分の存在を否定されている、遺伝的疾患への不安などの声である。欧米の一部では提供者の情報開示が行われているが、今後の日本はどのような展望があるのだろうか。また、血のつながりを求める心性とは何であろうか。さらに「血のつながった親」から「遺伝上の親」(同義であるが)へと意識が変化したようにも感じられる。
     アメリカではAIDは提供者の肉体的特質・知的能力などでランク付けされ精子バンクとしてのビジネスも展開されている。また、イギリスでは同性同士のカップルがAIDで子供を得るというケースも出現している。果たして、こらからの親子関係とはいったい何であろうか。
     また、日本では認められていないが、既に欧米では代理母、ベビーM事件のように代理母をめぐるトラブルが発生している。対岸の問題と思われていたが、日本でも、向井亜紀の代理母出産、根津クリニックによる娘の代わりに母親が出産するなど、厚労省の指針よりも事実が先行しているのが現状である。義姉が子供を生む。祖母が孫を産む。人文社会科学が想定していた親子関係、家族関係、親族関係を超越した状況が表出している。そこまでして産みたい、子供が欲しいという心性は何であろうか。
     民俗学において親子関係、家族関係、親族関係は社会伝承として研究してきた領域である。命・身体観もまたそうである。前述した変化は、我々が生きている時に起こったことである。無自覚あるいは無意識のうちの変化、これは民俗学が取り上げるべき問題と考える。
     本研究会では、家族法学の立場からの報告を踏まえた上で、現代のこうした諸問題ならびに先に指摘した疑問点を「現代社会と語りの問題」として取り上げ、narrative、life-historyという視角から、生殖医療の最先端と現代市民生活者との乖離を埋めるために、現代民俗学ができることは何か考えていきたい。(文責)宮内貴久

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    第14回研究会(終了) 海外研究者がみた日本というフィールド ~アメリカ研究者編~

    サンプル 日時:2012年7月8日(日)13:00~18:00
    場所:成城大学3号館321教室
    表題:海外研究者がみた日本というフィールド ~アメリカ研究者編~
    登壇者:
     菅豊(東京大学)イントロダクション「アメリカ民俗学の日本研究のアウトライン」
     Michael Dylan Foster(インディアナ大学)
           「『甑島のトシドン』における見る/見られる/見せる関係の一考察」
     谷口陽子(専修大学)「米国人研究者による戦後日本研究にみる日本というフィールド」
    コメンテーター:
     桑山敬己(北海道大学)

    ■共催:日本民俗学会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会
    ■その他:パネル発表、討論等は日本語で行われます。

    趣旨

     日本民俗学が、一つの学問分野であるとするならば、それは本来、日本「民俗学」、すなわち、日本において「民俗学」という方法を用いて研究する学問分野であるはずである。しかし、現実には、それは日本研究に重心を置いた「日本」民俗学としての色彩を強く帯びてきた。その研究対象や方法は「日本」という場に強く規定されており、また「日本」というフィールドも、その学問のなかでは所与のものとして扱われてきた。一方、日本というフィールドは、日本人研究者だけによって独占されてきたのではなく、実は日本の民俗学研究者の知らないところで、多くの海外研究者たちによっても考究されてきたのである。しかし、それらの研究内容や方法、知見というものは、日本民俗学のなかではほとんど顧みられることはなかったのであり、日本研究をめぐって切断された二重の研究世界が構成されてきたのである。本シンポジウムでは、アメリカ民俗学者や文化人類学者の日本研究の具体例を検討し、その研究の方向性と日本民俗学における研究の方向性との異同を明らかにし、今後の海外における日本研究との相互交錯の可能性について展望する。

    菅豊(東京大学)
     イントロダクション「アメリカ民俗学の日本研究のアウトライン」


    Michael Dylan Foster(インディアナ大学)
     『甑島のトシドン』における見る/見られる/見せる関係の一考察

    【要旨】
     2009年に日本の伝統13件が、ユネスコの「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載された。そのうちの一つが鹿児島県下甑島で大晦日に行われる「甑島のトシドン」である。トシドンとは子どもの教育や躾のために代々伝えられて来た大切な年中行事である。
     私は日本の民俗学専門のアメリカ人フォークロリストとして1999年から頻繁に下甑島を訪れ、島の人々と対話をかさねながらトシドンや島の生活を研究して来た。また今年は5ヶ月間ほど島に住み、日常生活の調査を行っている。本発表では、 トシドンのあり方を紹介し、特に行事の中で機能している「見る/見られる」関係を考察する。この関係を探りながら、島の現在の状況(子どもの減少等)またユネスコや観光の問題も論じ、とくに、視覚的想像(optic imaginary)という新しい概念を発展させる。最後に自分なりのトシドンの研究の経験を例として、アメリカ民俗学者が観察する日本というフィールドや、日本でのフィールドワークの意味や課題などについて考えてみる。

    谷口陽子(専修大学)
     米国人研究者による戦後日本研究にみる日本というフィールド

    【要旨】
     日本という研究のフィールドは、海外の研究者にいかなる学術的あるいは個人的経験をもたらす場となってきたのだろうか。本発表は、私が2003年より学史研究の視点から研究している、ミシガン大学日本研究所の研究史を手掛かりに論じる。ミシガン大学日本研究所は、1947年にミシガン大学に創設されて以来活発な研究活動を展開する米国の日本研究の一大拠点である。1950年から1955年までは、戦後日本の社会構造や人びとの意識変容の萌芽を捉える調査研究を行うべく、岡山市内にフィールドステーションを設置し、地理学、歴史学、政治学、人類学などの教授および大学院生が研究活動に従事した。戦後まもない時期に行われた彼らの調査研究は、対象地域の人びとや現地の日本人研究者との密接な相互関係を重視したものであったことは注目される。本発表では、彼らが岡山さらには日本というフィールドをいかなる「場」として認識あるいは眼差してきたのかを論じ、日本をフィールドとする民俗学的研究の現代的課題や意義について考察してみたい。


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    第13回研究会(終了) 社会学・口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開

    サンプル 日時:2012年 4月14日(土)13:00~
    場所:東京大学東洋文化研究所大会議室
    表題:社会学・口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開 ―教育大系統の民俗学を相対化する
         〈(シリーズ)民俗学におけるオーラリティの位相(2)〉
    登壇者:
     桜井厚(立教大学)「オーラリティの復権 ――『口述の生活史』前後」
     山田厳子(弘前大学)「世間話研究の射程 ―口承文芸研究から〈口承〉研究へ―」
    コメンテーター:
     古家信平(筑波大学)
     山泰幸(関西学院大学)

    ■コーディネーター:岩本通弥(東京大学)、小熊誠(神奈川大学)、門田岳久(日本学術振興会)

    趣旨

     現代民俗学会では第13回研究会、および2012年度年次大会(5月)において、民俗学の〈技法〉をめぐる議論を行う。とりわけ着目するのは民俗学におけるオーラリティの位相と、その学史的変遷である。
     いうまでもなく民俗学でオーラリティは一つのジャンルとして、また資料の形式として位置付けられてきた。しかし私たちは「聞き書き」という手法を用い、オーラリティやナラティヴに頼って調査・研究を進めてきたのにも拘らず、これに関する理論的な検討のみならず、なぜ語りを扱うのかという前提的な言及もほとんどなされてこなかった。むしろオーラリティやナラティヴを中心に構造化されてきた世界のFolklore Studiesと異なり、日本の民俗学では語りの資料は実証性に欠けるものとして徐々に軽視され、人々はなぜ語るのか/どのように語るのか/語りや対話がいかにして自己や社会関係の形成に関わるのかという、オーラリティを扱う上での問題意識が徹底されてこなかった。オーラリティやナラティヴに対する方法的な視角や関心の薄さは、1977年に結成された日本口承文芸学会が日本民俗学会と別立てになっている事実、あるいは民俗学を中心に組織された「人類文化研究のための非文字資料の体系化」(神奈川大学21世紀COEプログラム)においても口承文芸の専門家が一人も配置されなかったことに、如実に顕れている。
     民俗学において今オーラリティを議論することは、決して民俗学内の一つのサブカテゴリーとしてこの分野を再定位し、拡大させようということではない。むしろ、なぜオーラリティが軽視されていったのか経緯を検討し、民俗学の基本的な技法としてそれを位置付けることで、民俗学全体の学問認識を問おうという試みである。従ってそれは日本の民俗学の方法的特殊性を相対化する作業であり、国際化に不可欠な理論的深化にも繋がっていくだろう。
     第13回研究会では、年次大会のシンポジウム「民俗学的〈技法〉の構築を目指して―方法としてのナラティヴ」の前提として、社会学および口承文芸学におけるオーラリティ研究の展開を概観するとともに、日本の民俗学がオーラリティやナラティヴを軽視していった学史的展開を、1958年からのアカデミズム化の流れの中で、相対化することを試みる。特に歴史学との関係性が深くなった東京教育大学の史学方法論教室が作り出した「民俗」学を改めて俎上に載せ、同教室における歴史学重視の学問展開と、社会学や文学との関係希薄化を問い直す。
     こうした経緯を学史の中から析出させるために、日本のライフ・ストーリー/ヒストリー研究を牽引してきた桜井厚氏に、社会学におけるオーラリティ研究の展開を通覧していただくとともに、有賀喜左衛門・中野卓氏の主導する教育大社会学教室という、史学方法論とは違う系譜の下でもう一つの「民俗学」=「生活」研究が立ち上がっていった経緯を語っていただく。一方、〈口承〉研究の立場からは、世間話研究を牽引されてきた山田厳子氏に、関敬吾系統の「民俗学」がどのようなオーラリティ研究を展開してきたのか、ジャンル論から飛翔しつつある、その動向を紹介いただき、両者の議論を交差させることで、日本の民俗学における特異な「方法」的問題の所在も明確化させる。

    桜井厚(立教大学)
     オーラリティの復権――『口述の生活史』前後

    【要旨】
     中野卓編著『口述の生活史』(1977)は、わが国における生活史(ライフヒストリー)研究、なかんずくオーラリティ/ナラティヴ研究の嚆矢となった。中野は師、有賀喜左衞門から「生活」把握の方法論や社会調査の精神を受け継ぎながら、本書によって機能主義的な方法論と距離をおいて、新たに「個人」の生活世界を探究することからわが国の歴史と文化への接近を構想した。報告では、柳田民俗学から出発した有賀から中野が何を継承し、さらに今日のライフストーリー/オーラルヒストリー研究へとつながっているのかを考えたい。

    山田厳子(弘前大学)
     世間話研究の射程ー口承文芸研究から〈口承〉研究へー

    【要旨】
     柳田の提唱した世間話の研究はいくつかの補助線をひきながら読み解くべき問題であるが、第一には柳田の国語論の中で位置づけられるべきものである。そこでは、話そのものを資料として活用するというよりは、話が認識を再生産するしくみであることに目を向けていると思われる。そこで、形式/語彙/話法(技法)といった問題群と、知識/経験といった問題群が、柳田とその後の研究の中でどのような形で具体的に展開してきたのかについて、述べてみたい。

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    2011年以前に開催された研究会


    第12回研究会
    ローカル・ガバナンスと地域社会

     日時:2011年12月11日(日)13:00~
     場所:お茶の水女子大学
     登壇者:
      船戸修一
      都市における農業用水の維持管理の現状と
      そのローカル・ガバナンス形成への課題
      門田岳久・小西公大
      「寄合民主主義」とローカル・ガバナンス
     コメンテーター:
      宮崎文彦
    第11回研究会
    公共民俗学とはなにか

     日時:2011年9月11日(日)13:00~18:00
     場所:成城大学 3号館321教室
     基調講演:
      ロバート・バロン(Robert Baron)
      アメリカの公共民俗学
     パネリスト:
      菅豊
      公共民俗学
      吉村亜弥子
      ウィスコンシン州の公共民俗学実践と
      その教育
     コメンテーター:
      小長谷英代・橋本裕之
    第10回研究会
    「オーラリティ」の実践と方法的課題

     日時:2011年7月23日(土)13:00~18:00
     場所:成城大学 8号館832教室
     登壇者:
      大門正克
      人に話を聞くということは、
      どういうことなのだろうか
      野口憲一
      彼女たちと私の農産物直売所
     コメンテーター:
      中野紀和
    第9回研究会 ※震災のため中止
    民俗学は政治をとらえうるのか?

     日時:2011年3月19日(土)13:00~
     場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
     登壇者:
      船戸修一
      都市における農業用水の維持管理の現状と
      そのローカル・ガバナンス形成への課題
      柏木亨介
      来るべき社会の構築とアイデンティティ
     コメンテーター:
      宮崎文彦
    第8回研究会
    自然保護と文化保護、何が違うのか?

     日時:2011年3月19日(土)13:00~
     場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
     登壇者:
      菅豊
      資源としての『自然』と『文化』
      藤原辰史
      ナチスの農場概念
     コメンテーター:
      安室知
    第7回研究会
    無形文化遺産保護運動と中国民俗学

     日時:2010年9月11日(土)13:00~
     場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
     登壇者:
      周星
      非物質文化遺産の保護運動と文化政策、
      及び「文化観」の転換
      施愛東
      中国における非物質文化遺産保護運動の
      民俗学への負の影響
     コメンテーター:
      西村真志葉
    第6回研究会
    《討論》福田アジオを乗り越える

     日時:2010年7月31日(土)13:30~
     場所:東京大学東洋文化研究所大会議室
     登壇者:
      福田アジオ
    第5回研究会
    「都市」の収穫を問い直す

     日時:2010年3月20日(土)13:30~17:00
     場所:お茶の水女子大学大学本館2階209室
     登壇者:
      飯倉義之
      都市民俗学の〈揺れ〉
      土居浩
      都市と〈私〉と学際と
    第4回研究会
    ドロシー・ノイズ氏講演会

     “Necessity and Freedom in
       the Tradition Process”
     日時:2010年1月23日(土)13:00~
     場所:東京大学東洋文化研究所大会議室
     登壇者:
      ドロシー・ノイズ
    第3回研究会
    「社会」再考

     日時:2009年11月14日(土)13:30~16:40
     場所:お茶の水女子大学大学本館2階209室
     登壇者:
      岡山卓矢
      契約講の地縁社会化
      武井基晃
      歴史の共有と「わたしたち」の範囲
     コメンテーター:
      石垣悟・小西公大
    第2回研究会
    新たな民俗学の行方

     日時:2008年12月7日(日)13:00~17:40
     場所:佛教大学6号館101号室
     登壇者:
      川村清志
      民俗文化研究への視角
      村上忠喜
      神性を帯びる山鉾
      山泰幸
      〈現在〉の〈奥行き〉へのまなざし
      谷口陽子
      現代の家族・親族関係の研究における
      民俗学の可能性
      徳丸亞木
      伝承の動態的把握についての試論
    第1回研究会
    民俗学の危機

     日時:2008年9月20日(土)13:00~17:00
     場所:お茶の水女子大学 大学本館2階209室
     登壇者:
      岩本通弥
      民俗学は「民俗」学ではない
      菅豊
      民俗学の陳腐化

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